愛のバトンをさがして

芹野 創 牧師

 

わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である(ヨハネによる福音書15章12節)

 

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(ヨハネ15:12)。隣人愛とは自らを押し殺して誰かのために生きることではない。互いに愛し合うことを掟としたキリストの言葉は、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:13)という十字架を示す言葉に続いていく。友のために命を捨てるような生き方がキリストの十字架なしでなし得る「道徳的な事柄」ではないことを忘れないでいたい。

 愛は神から始まるのである。聖書は「主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた」と語る(申命記7)。人は多くの場合「自己満足」を土台に誰かを愛する。復活したキリストが弟子のペトロに「わたしを愛しているか」と訊ねる場面(ヨハネ21:15以下)に、人間の愛の限界が示されているように思う。ギリシャ語の原文では「アガパオー」と「フィレオー」という言葉が使い分けられている。「アガパオー」は神の愛を表現する時によく使われる言葉であり、「フィレオー」は友情などの人格的な愛や信頼関係を表現する言葉である。キリストは「アガパオー」としての「愛」を訊ねるが、ペトロは「フィレオー」としての「愛」をもって返答する。キリストの十字架と復活を自分の出来事として経験した者は、「自己満足」を土台に誰かを愛することの虚しさと同時に、そういう形でしか人を愛することができなかった自分に気付かされるのである。私たちは「自己満足」ではなく神に愛された者という「愛のバトン」を受け渡す者でありたい。

 

 宮沢賢治の『なめとこ山の熊』という作品がある。この作品は熊捕り名人の小十郎と彼に撃ち捕られる熊との関係を、表面的な「撃つ/撃たれる」という関係を超えた分かちがたいものとして描ているように思える。「生活のためにお金を稼ぐ(熊を捕る)」というこの世の社会生活から切り離されたところに小十郎と熊の世界がある。人の心は「この世が掲げる価値判断」では測りきれないものを抱えているものである。

 

 神の「愛のバトン」は「この世が掲げる価値判断」から少し切り離されたところにあるように思う。人は「この世が掲げる価値判断」から切り離された世界を味わうことで本当に大切なものを見つめ直すことがある。神の「愛のバトン」を探し、十字架の意味を受け止め直すために「静かなる一人の祈り」を大切にしたい(マルコ1:35参照)。