みことばへの信頼

芹野 創 牧師

 

ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください(ルカによる福音書7章7節)

 

 「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください」(ルカ7:7)。本日の箇所の中心にある言葉である。それは「みことばへの信頼」である。言葉は人を生かす力になる。しかしその言葉への信頼がなければ、言葉はただの音であり意味や情報を伝えるだけの道具になってしまう。私たちにとってしばしば重要なことは、言葉の意味や内容ではなく誰が語っているかということである。「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください」。ここにはキリストの語る言葉の力に対する信頼がある。それは語られる内容だけではなく、その言葉を語る者への信頼であると言えるだろう。

 山田詠美さんの『ぼくは勉強ができない』という短編小説がある。主人公は17歳の高校生。作中、主人公が小学5年生の時の回想シーンが出てくる。担任教師とのやりとりの中で「ぼくは、この時、初めて、大人を見くだすことを覚えた」と回想する場面が語られる。大人の語る言葉への信頼が反転してしまう「信頼の喪失」は、ほんの一瞬の些細な出来事なのかもしれない。大人への信頼、言葉への信頼というものが簡単にひっくり返ってしまう現実がる。言葉は人を生かす力になる一方で、その反対の力も持ち合わせているのである。言葉は時に人を傷つけ、縛り付けるような力になるのである。

 

 ダニエル書の物語にそのことが示されている。ダニエル書6章は獅子の洞窟に投げ込まれるダニエルの物語であるが、その出来事を引き起こしたのは「王の言葉」であった。王は自らの言葉に縛られダニエルを命の危機に陥れてしまうのである。大きな力を持つ王の言葉について「一つの石が洞窟の入り口に置かれ、王は自分の印と貴族のたちの印で封をし、ダニエルに対する処置に変更がないようにした」(ダニエル6:18-20)と聖書は語る。この一連の描写はキリストの十字架と復活の場面を想起させる。それは夕暮れに佇む十字架と、そこから一転した早朝に訪れる復活の出来事である(マルコ16:2-4参照)。夕暮れにふさがれた絶望の石は、朝早く既にわきへのけられ新しい道が開かれていたのである。

 

 言葉に対する信頼が揺らいでいく時、最後に頼るべきことは人間の裏切りと不誠実さがもたらしたキリストの十字架を隠すことなく語り、人間の抱く疑いを超えてキリストの復活を語り続ける聖書の言葉である。私たちはその聖書のみことばに信頼を寄せて歩んでいきたい。「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯」(詩篇119:105)。