あなたがたの間に

芹野 創 牧師

 

わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる(マタイによる福音書28章20節)

 

 「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)。その中には疑う者も含まれていた。また「共にいる神」というメッセージは旧約聖書の中にも見られる。イスラエルの人々をエジプトから導き出したモーセの背中を押したのは「わたしは必ずあなたと共にいる」(出エジプト3:12)という神の言葉であったし、モーセの後継者ヨシュアを支えたのも「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる」(ヨシュア記1:5,9)という神の言葉であった。ただ福音書と違うのは「あなたがた」ではなく「あなた」という特定の個人を指していることである。

 聖書の歴史の中で「神が共にいる」というメッセージが人々の心に記憶された出来事がバビロン捕囚であった。エゼキエルは捕囚の経験の中で多くの幻を見た一人である。国の滅亡とバビロン捕囚、捕囚からの解放という歴史の転換点の中で、人々の心を力づけた言葉は「神への立ち返り、悔い改め」と同時に「神が人々の間にいる」という言葉であった。「わたしは神殿の中から語りかける声を聞いた。わたしは、ここで、イスラエルの子らの間にとこしえに住む」(エゼキエル43:6-7)。「神が共にいる」というメッセージは、人々が互いに助け支え合わねばならないような「命の危機」を迎える時代において「あなた」ではなく「あなたがた」への言葉として何度も語り直されるべき言葉なのである。

 

 テレビドラマ「3年B組金八先生」で生徒の一人が性同一性障害であるという設定が話題となり、「性同一性障害」という言葉が認知され始めたという。今日「多様な性」に関わる内容は人権教育の一環として扱う必要性が高まってきていると言えるが、その教育的取り組みが社会全体の意識の変化の中から生まれつつあるということが、何より大切な点であるように思う。なぜなら社会全体の意識の変化とは、「あなた」の問題ではなく「あなたがた」の問題であるという意識の高まりの中でしか生まれてこないからである。

 

 「あなたがたと共にいる神」の姿はキリストという人の姿で現れ十字架を背負われた。その十字架を「人々の間を繋ぎとめるもの」として語り直す聖書の言葉を思い出したい。「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」(エフェソ2:16-19参照)。人々の間を繋ぐ和解の十字架が、知識ではなく私たちの生き方の中に深く根ざしたものとなることを願い、聖霊という神の力を求めたい。