福音をきく力

芹野 創 牧師

 

この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉で使徒たちが話をしているのを聞いて、あっけにとられてしまった(使徒言行録2章6節)

 

「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」、「この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉で使徒たちが話をしているのを聞いて、あっけにとられてしまった」(使徒2:2,6)。ここには「音としての言葉」、「声としての言葉」がある。

 旧約聖書に記される「バベルの塔」の物語では言葉の混乱と人々の分裂が描かれている(創世記11:7-9)。それは「人が語る言葉の意味やその言葉に込められた思いを汲み取る力がなくなった」ことを示す物語でもある。この「思いを汲み取る力」の喪失が混乱と分裂になっていくことを聖書は物語る。今の時代も例外ではない。「思いを汲み取る力」とは「言葉に耳を傾け、言葉を聞く力」なのである。

 

 日本語教育実践家の嶋田和子さんは日本で暮らす外国人が抱く3つの壁について話している。それは「言葉の壁」、「制度の壁」、「こころの壁」の3つである。嶋田さんは外国人と共に暮らすまちづくりについて「相手が日本語を覚えればよいのではなく、日本人である私たちも、改めて自身のコミュニケーション方法を見直していく必要があるのではないでしょうか。その際には「対話」が一層大切になってきます」と話す。ここでいう「対話」とは、「こころの壁」を乗り越えて「言葉に耳を傾け、言葉を聞く力」を取り戻すことであるように思う。そのために私たちは「対話」という事柄が決して自己完結ではない、「他者との共同作業」であることに気づかなければならない。このとき「声としての言葉」は、言葉を語る者の姿を通して「こころの壁」を乗り越え「言葉に耳を傾け、言葉を聞く力」を取り戻す一助になるのかもしれない。

 

 「言葉を聞く力」とは自分に有益だと思う言葉を探すことではない。自己完結では対応できない事柄を味わい知る時にこそ、人は「こころの壁」を乗り越えて「言葉に耳を傾け、言葉を聞く力」を取り戻すことを願う。そこに「キリストの福音」がある。

 

 「こころの壁」を乗り越えて「言葉を聞く力」を取り戻すことへの渇望がなければ「キリストの福音」が「喜びの知らせ」となることはない。「キリストの福音」は聞くところから始まる(ロマ10:14,17)。「声としての言葉」に改めて出会った人々は、「こころの壁」を乗り越えて人々を繋ぐキリストの十字架と復活の物語に初めて出会っていくのである。