邪悪な時代の中で

芹野 創 牧師

 

ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた(使徒言行録2章40節)

 

 「邪悪なこの時代から救われなさい」(使徒2:40)。私たちは「邪悪な時代」がどのように訪れるのかを見つめる目を持っていたい。ダビデ王による神殿建設の提案は、人々の生活が豊かに整えられていく中で生まれた提案であった。(サムエル下7:1-2)。しかし神は預言者ナタンの口を通して神殿建設の提案を退けられたのである(サムエル下7:4以下)。

 生活の安定は信仰という観点において大きな転換点であると言える。なぜなら生活の安定を下支えする具体的な中身が、神殿を建設できるだけの大きな財力と技術だったからである。お金と人間の力がものを言う時代を迎えるときに、私たちは財力と技術と知識を「何」のために注ぎ込むのかということを見失ってはならない。そのことを見失うとき、私たちは邪悪な時代を作り出してしまうからである。

 

 『禁断の惑星』というSF映画がある。高度な技術を持ち、優れた文明を築いた民族が相互に傷付け合い死滅してしまう物語である。この惑星で発達した高度な科学文明とは自らの能力を飛躍的に高める技術であったが、その反面、心の奥底に潜む闇も飛躍的に膨らみ、怪物となって現れるようになっていたのである。心理学的な解釈を背景にしたこの映画は科学技術の進歩を目指す人間への警鐘のようにも受け止められる。

 

 しかし「邪悪な時代」の中にも人の心を打つ言葉がある。キリストの十字架と復活を語る福音の言葉を聞いた時、「人々はこれを聞いて大いに心を打たれた」(使徒2:37)と聖書は語る。聖書は「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることである」(コリント二5:15,17-18a)と語る。邪悪な時代の中にも「神から生まれるもの」がある。キリストの復活という「神から生まれてくる出来事」を通して、私たちは新しく生き直すことができるのである。この「神から生まれてくる出来事」は決して一時の幻ではない。お金と人間の力がものを言う時代の中で、私たちは「人から生まれてくる邪悪なもの」に落胆するのではなく「神から生まれてくる出来事」を確かめ、私たちの人生の中に保っていかなければならない。「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」(使徒2:42)と聖書は語る。それはお金と人間の力がものを言う「邪悪な時代の中で」、「神から生まれてくる出来事」を人生の中に保っていくための具体的な姿である。