聖霊の力に満たされて

芹野 創 牧師

 

この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です(使徒言行録4章11節)

 

キリストの福音のメッセージは、福音を受け入れ信じる人たちを生み出すだけではなく、福音に苛立ちや反感を覚える人たちも生み出した(使徒4:2-3)。福音は、それに共感し得ない人たちの存在も浮き彫りにしていく。私たちはこの事実をいつも忘れずにいたい。それは人々の好意や共感を得ていくことの背景に、言葉を語る人の立場や権力が関係していることが少なくないからである。「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああゆうことをしたのか」(使徒4:7)。私たちは、人間の語る言葉や権力のパワーバランスではなく、聖霊の力に満たされた言葉と知恵が、何を生み出すのかを知らなければならない。

 ハンセン病患者として隔離生活を強いられた詩人、塔和子さんの詩に「胸の泉に」という詩がある。この詩には「かかわらなければ」という言葉が繰り返し出てくる。「かかわることから始まって/かかわったが故に起こる/幸や不幸を/積み重ねて大きくなり/くり返すことで磨かれ/そして人は/人の間で思いを削り思いをふくらませ/生を綴る」。ハンセン病という病への偏見や差別の故に「人と関わることが、いつでも幸せだけを生み出すわけではない」という厳しい現実が突きつけられる。

 

 人間の語る言葉や権力のパワーバランスの中で世界情勢が動いたとしても、人間の語る言葉や力だけでは偏見や差別、対立、分断を埋め合わせるのは難しいと落胆することがある。しかしだからこそ聖書は聖霊という神の力に満たされて語るペトロの姿を伝えている(使徒4:8,10-11)。聖霊の力に満たされた言葉と知恵は二つの事柄に支えられている。

 

 一つは「家を建てる者に捨てられた石」を思い起こすことである。この石のようにキリストの十字架が人々から見捨てられたところに立たねばならなかったことを思い起こすのである。そしてもう一つは「捨てられた石がその建物を支える隅の親石となったこと」である。明確な意志を持って捨てた石が親石として生まれ変わったことを思い起こさなければならない。それは人間の計画と意志を超えたキリストの復活を知るということである。

 

 申命記では「あなたを苦しめて試し、ついには幸福にする」、そのような神を忘れてはならないと語られている(申命記8:16)。私たちの心は多くの場合、苦しみか幸福のどちらかに傾いてしまう。そういう時こそ、聖霊の力に満たされた言葉と知恵によって、私たちの人生にも十字架と復活という神の業が存在することを思い起こしたい。