人ひとりの大切さ

芹野 創 牧師

 

ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」と言った。そこは寂しい道である。フィリポはすぐ出かけて行った(使徒言行録8章26節〜27節)

 

 エゼキエル書34章は牧者のたとえを通して「国民を顧みない為政者」の姿を描く。彼らは羊である国民が傷ついても、関心を示さず力で支配する有様だった(エゼキエル34:1以下)。羊は「野の獣」の餌食になってしまったと聖書は語るが、「野の獣」とは諸外国による侵略を暗示する言葉である。一方でそのような出来事と対照的に語られる「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:11)という御言葉も思い出される。私たちを本当に養って下さる方は、権力を誇示することではなく私たちの苦しみを共に分かち命を捨てる方である。聖書はキリストこそがこの世に来られた真の牧者であることを告げている。

 使徒言行録8章26節以下では、エチオピア人の宦官が礼拝を終えた帰り道に聖書の言葉を読んでいた場面が語られている。しかしこの宦官は「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と手引きを求める。これはエチオピア人の宦官だけに限った話ではない。聖書の御言葉は全ての人に開かれ、誰でもその御言葉を読むことができるが「御言葉を読むこと」と「福音に出会うこと」とは別の話なのである。

 

 『スマホ時代の哲学 失われた孤独をめぐる冒険』という本が出版されている。ニーチェの「君たちは自分を忘れて、自分自身から逃げようとしている」という言葉を引用し、スマホが手放せない時代を前提にして人間について考察を深めていく。興味深いキーワードが「常時接続」という言葉である。コロナ禍による生活の変化は私たちにとって大きな転換点になった。コロナ感染拡大により人と直接会うことが制限され、よりネットの世界に「常時接続する生活」になった人たちと、反対に同じ理由で、それまでの自分を見つめ直し新しい経験や価値、新しい世界を広げようとした人たちを生み出したように思う。

 

 私たちは自分の人生に向き合うからこそ、聖書に記される一人の人の物語を通して福音に出会っていく。エチオピア人の宦官の物語は「一対一の対話の中で起こったこと」、「彼の通った道が寂しい道だったこと」を告げている。フィリポは大勢の人ではなく、御言葉を必要とする一人のところに遣わされたのである(使徒8:26-29)。福音は一人の魂と出会うことを求めている。そしてその一人が人生の「寂しい道」を歩いている時、神は福音を告げる人を与えられる。「寂しい道」は「荒れ果てた道」とも訳される。人生に訪れる「荒れ果てた道」もキリストの十字架の故に一人で歩む道ではないことを思い起こしたい。