命の糧を求めて

芹野 創 牧師

神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない(使徒言行録11章:9節)

 

 ルツ記は夫を失い姑であるナオミに従いベツレヘムに向かう外国人女性の物語である。ナオミが再び故郷ベツレヘムに帰る決心をした理由は「食べ物」であった(ルツ1:6参照)。ルツ記は人間の命の糧である「食べ物」をめぐる物語でもある。命の糧を支える「食べ物」は決して肉体的な体を支える「食べ物」だけではないということを私たちは思い返さなければならない。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」。神の言葉は「食べ物」と同様に命の糧にもなる。それは心を支える命の糧である。

 さて使徒言行録11章ではペトロが見た幻が記されている。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」(使徒11:9)という言葉は、ユダヤ人でも外国人でも「食べ物」が肉体を支える命の糧となるように、神の言葉である福音の言葉はどんな人にとっても心を支える命の糧となる、ということを示すものだと言えるだろう。それは私たちも例外ではない。私たちは心を支える命の糧にどのように出会っていくのだろうか。

 

 NHKの番組で「阿佐ヶ谷アパートメント」という番組がある。ある日のテーマが「捨てれナイト・フィーバー」というテーマで、街ゆく人の「捨てられないもの」についてインタビューと共に「なぜ捨てられないのか」ということについて作文を書くというワークショップが紹介されていた。「捨てられないもの」は木の枝葉のように目に見える表面的な物だが、しかしその一つ一つは目に見えない、表面化することのない人生の「心の根っこ」に関わるようなものではないかという話である。

 

 旧約聖書アモス書は、心を支える命の糧である神の言葉を見出せない苦しみについて語っている(アモス8:11)。そこには命の糧を探し求め、渇望する苦しみがある。しかしその心の渇望をキリストが十字架で担うのである。ヨハネ福音書におけるキリストの十字架は、人の心の渇きを汲み取るようなメッセージがある(ヨハネ19:28参照)。

 

 人生の喜びだけではなく辛苦を味わってきた「心の根っこ」があるからこそ、キリストが十字架の上で「渇く」と言われたことを、私たちは自分の人生に深く重ねるのである。聖書の言葉を福音の言葉として味わう「心の根っこ」は全ての人に与えられている。「心の根っこ」を通してキリストの十字架と復活を示す聖書の言葉の中に、福音の言葉という心を支える命の糧があることを見出したい。