まだいのちがある

芹野 創 牧師

パウロは降りて行き、彼の上にかがみ込み、抱きかかえて言った。「騒ぐな。まだ生きている。」(使徒言行録20章10節)

 

 人間の力が傲慢となり根拠のない自信を生み出すとき、神の言葉は安易な「人間讃歌」ではなく、人間の傲慢さを知らしめ、その状況に対する冷静な判断を下すものとなる。預言者エレミヤの言葉は敵国バビロニアへの降伏であった(エレミヤ38:2)がエレミヤの言葉は「士気を挫く言葉」として受け止められてしまう(エレミヤ38:4)。「士気を挫く」という言葉の直訳は「手を弱める」である。神の言葉が、希望をもって進みゆくことではなく引き下がることを示し「人の手を弱める」ものとして語られるとき、その言葉を素直に受け入れることがいかに難しいかということをこの物語は語っている。「人の手を弱める」ことは何かを諦めることではなく「神の手に委ねる」ことでもある。神の言葉をかき消そうとする「手を弱め」、神の言葉に身を委ねる信仰を保ちたい。なぜなら神の言葉だけではなく、何事においても「かき消すこと」ばかりでは対処できない出来事が私たちの人生にはたくさんあるからである。

 日本文学研究者の助川幸逸郎さんは「芥川賞は時代を映し出す鏡」だという。助川さんは1995年の阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件に注目し、この年を境に「つらい過去や傷を抱えた個人を描く作品が増えた」と分析する。それから30年余りが過ぎ、「つらい過去や傷」、「宗教」、「カルト」というキーワードと共に、今再び宗教を取り巻く様々な事柄に注目が集まっている。人間の過去やトラウマ、背負ってきた傷は決して消えない。しかし人間の消えない傷を前提に語られるのがキリストの福音なのである。

 

 ヨハネ福音書のトマスの物語に示される「復活の傷」がまさに「消えない傷」である(ヨハネ20:)。使徒言行録20章の物語の中では「まだ生きている」(使徒20:10)という使徒パウロの言葉がある。この言葉は「まだいのちがある」とも訳される。私たちは傷が癒えなくても、また希望がかき消されてしまう時にこそ、「人の手を弱め」、神の手に委ねつつ、「まだいのちがある」という言葉を聞くのである。「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために」(コリント二4:8-10)。私たちに「まだいのちがある」のは、私たちの消えない傷がキリストの十字架の傷だからであり、その傷を抱えたままキリストが復活して下さったからである。私の人生の中でキリストが共に歩み、共に傷つき、そして復活されたのである。