一人も失わないように

芹野 創 牧師

 

キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました(ペトロの手紙一3章18節〜19節)

 

 預言者エリヤは命の危機を感じる中で御言葉による励ましを経験する。それは「静かにささやく声」を聞く経験であった(列王上19:11以下)。私たちもそれぞれの生活の中で祈りつつ神の「静かにささやく声」を聞く者でありたい。その声は人の苦しみや悩みの中で、歩んできた道を引き返し、荒れ野で友を見出すように示すような声である。「行け、あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ。」(列王上19:15)。神の「静かにささやく声」はエリヤに新しい王の存在や豊穣の神バアルに従わない7000人を見出すことを告げる。それはエリヤが決して一人ではないことを告げる声である。私たちが経験すべき神の「静かにささやく声」は、私たちの人生に力と意味を与える声であることを覚えたい。

 私たちは神の「静かにささやく声」を聞き分けるための時間と場所をもつだけではなく、歩んできた道を引き返し、見過ごしてきた荒れ野にもう一度目を向ける勇気を持たなければならない。私たちがキリストに出会うのは、これから先の出来事ではなく、これまで歩んできた喜びや労苦の道のりの中にこそあるからである。

 

 イギリス在住のコラムニスト、ブレディみかこさんの著書に『THIS IS JAPAN 英国保育士が見た日本』という本がある。その中に「大切な誰かの幸せひとつ守れやしない私に、守りたい平和なんてない」という言葉が出てくる。最低賃金に苦しむ女性の怒りに満ちた言葉である。この社会が作り出した「荒れ野」のような世界に絶望を感じることもある。その「荒れ野」とは「心の荒れ野」であり、「社会構造の荒れ野」であり、「人間存在の荒れ野」でもある。しかし私たちは「荒れ野」の世界を福音の始まる場所とするためにキリストが来られたことを信仰の内に覚えるのである。

 

 ペトロの手紙では「捕らわれていた霊」のもとに行き福音を述べ伝えるキリストの姿が語られている。「霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。」(ペトロ一3:18-19)。神を知らず、この世の様々な事柄に悩み、苦しみ、捕われている人たちをキリストは深く心に留められた。それは「一人も失わないように」という祈りをもって一人ひとりを探し求めるキリストの姿である。私たちの人生でキリストの手が届かない場所はない。私たちの深い悲しみや「荒れ野」の世界にもキリストは手を伸ばしその手に十字架の釘を打ち込まれた。その痛みを私の痛みとして分かち合うために。