言葉だけによらず

芹野 創 牧師

 

わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と聖霊と、強い確信とによった空です(テサロニケの信徒への手紙一1章5節)

 

エゼキエル書12章ではバビロン捕囚という出来事が迫る中でも「エルサレムは安泰だ」と楽観していた人々の希望を打ち砕く言葉が語られる。厳しい裁きの言葉を通して、私たちは神の言葉がこの世の様々な事柄と決して無関係ではないということを教えられる。実に神の言葉はこの世界の労苦や課題の中で改めて見出され、私たちに悔い改めと再び生きる力を与えるものである(エゼキエル12:24以下参照)。

 テサロニケの信徒への手紙は新約聖書の中で一番最初に記された書物であると言われている。この手紙が書かれた大まかな趣旨は「神の言葉を知る者は、この世の事柄に無関心になってはならない」ということである(特に5章参照)。

 

 物理学者でもあり文人でもあった寺田寅彦は「眼は、いつでも思った時にすぐ閉じることができるようにできている。しかし、耳のほうは、自分では自分を閉じることができないようにできている。なぜだろう」という文章を残している。最後の「なぜだろう」という一言が印象に残る。預言者を通して語られる神の言葉をどのように聞くのかを考えさせられる。それは御言葉を知り、御言葉を受け入れるという出来事が自分の意思だけで選択する出来事ではないからである。「耳のほうは、自分では自分を閉じることができないようにできている。なぜだろう」。御言葉に出会うとき、この「なぜだろう」という感覚の中で、人は真実の神を求め始めるのではないだろうか。

 

 テサロニケの教会がマケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となったのは、ひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れたからであると聖書は語る(テサロニケ一1:5-7)。ただ御言葉を受け入れたのではなく、「ひどい苦しみ」中で御言葉を受け入れたことが、他の信仰者の大きな励ましと模範になったのである。神の言葉をどのように聞くのかということについて、私たちは「ひどい苦しみ」という、この世の労苦を無視してはならないし、また無視すべきではないのである。

 

 私たちの信仰は苦しみを避けるだけの理屈ではない。私たちには「言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信」によって、神の言葉がこの世の事柄に深く関わり、私たちのためにキリストが苦しみを引き受けて十字架を背負い、復活されたという福音のメッセージをいつも思い返すことができる信仰が与えられていることを覚えたい。