不寛容な世界の中で

芹野 創 牧師

わたしは何事においてもあなたがたに負担をかけないようにしてきたし、これからもそうするつもりです。(中略)わたしがあなたがたを愛していないからだろうか。神がご存じです(コリントの信徒への手紙二11章 9節〜11節)

 

使徒パウロはキリストの福音の偉大な宣教者であると同時に、敵対者の多い人でもあったと思われる(使徒15:36-41等参照)。「わたしは、他の諸教会からかすめ取るようにしてまでも、あなたがたに奉仕するための生活費を手に入れました」(コリント二11:8)という言葉は異様な印象がある。口語訳聖書では「わたしは他の諸教会をかすめたと言われながら得たお金で、あなたがたに奉仕し」と訳されていた。ここから推測されることは、諸教会の中には「パウロのために献金を用いてほしくない」と考えパウロのことを非難する人たちが一定数いたということである。

箴言は「知恵の書」だと言われる。いわゆる人生の処世術である。「王の前でうぬぼれるな。身分の高い人々の場に立とうとするな。高貴な人の前で下座に落とされるよりも上座に着くようにと言われる方が良い」(箴言25:6-7)。身を低くし謙遜であるようにという勧めは私たちの言動の指針にもなる。しかし箴言のような指針が私たちの人生を決めるのではない。行動の指針の中に「愛」があるかどうかが問題なのである(コリント二11:9-11)。

 

アメリカの小説家ジョン・アーヴィングの小説に『ガープの世界』という作品がある。この作品の背景には物語の舞台でもある1960年から1970年代のアメリカ社会に存在した暴力や分断がある。登場人物の一人ヘレンの台詞に次のような言葉がある。「『不寛容なものに対する寛容さは、時代がわたしたちに要求している困難な課題じゃないかしら』とヘレンがいった」。ヘレンの台詞は今日でもほとんど変わることのないメッセージである。

 

しかしこの困難な課題を、私たちは「暴力」や「分断」を生み出してしまった社会の一員として自ら背負うだけではなく、キリストの福音と共に生きるのである。目の前の課題が何であったとしても、人は生きている以上、何かしらの選択をしなければならない。人生の選択に必ずしも正解があるわけではない。だからこそ私たちは人生の選択とその結果を自ら背負うだけではなく、「キリストの福音の力」に委ねるのである。

 「不寛容な世界」の中で、私たちがもう一度手にしなければならないのは行動の指針や倫理、社会の規範だけではない。その全ての土台に「愛」が必要なのである。私たちが人生の選択とその結果を自ら背負うだけなら、その重荷に耐えられなくなる時が来るだろう。私たちの「愛」は完全ではないからだ。ここにキリストの背負う十字架が必要なのだ。