誇るべきもの

芹野 創 牧師

 

このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。大切なのは、新しく創造されることです(ガラテヤの信徒への手紙6章14節〜15節

 

サムエル記下では15章以降、ダビデ王の息子アブサロムがダビデ王に対して反乱を起こす出来事が描かれている。本日の聖書日課では、アブサロムの反乱を鎮めるための戦いの結果を待つダビデ王の様子が描かれている。ダビデ王は反乱の鎮圧と息子の無事を願っていた(サムエル記下18:29,32参照)。しかしアブサロムの戦死を知ったダビデ王は「わたしがお前に代わって死ねばよかった」(サムエル記下19:1)と深く嘆く。

 

たとえ反乱を起こすような息子であっても、息子に対する深い愛情は言葉で表現し難い「人生の誇り」でもある。私たちは深い愛情を注いできたもの、人生の誇りにしてきたもの、大切にしてきたものが取り去られる経験を強いられることがある。そこには深い悲しみと嘆きがある。しかしその厳しい現実を前提にするからこそ、私たちはキリストの言葉と行いを通して「人は何を人生の誇りとして生きるべきか」ということを示される。私たちが誇りとすべきことは、私たちには「帰るべき場所」があるということである。それは教会でありキリストの十字架である。

 

今年の5月にウクライナで『戦争語彙集』という本が出版された。この本はウクライナの詩人がこの度の戦争を経験してきた市民たちから聞き取ったストーリーを短編にまとめたものである。「戦争語彙集」とは戦争に特化した「非日常の言葉」という意味ではない。この本では「風呂」「星」「林檎」「夢」など日常的な言葉が、戦争によって意味が変わってしまう様子が記録されている。

 

同じ言葉でも、その言葉の意味が変わってしまうという現実は、聖書でも同じである。その最たるものが「十字架」である。十字架はキリストを磔にした処刑の道具である。しかしその十字架が聖書を通して「人は新しく創造される」という意味を持つ言葉となったのである。「このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」(ガラテヤ6:14-15)。この世が「誇るべきもの」は時代の中で変わっていくが、言葉の意味が変わる中で十字架の意味もまた日々新たにされる。いつも新しい福音のメッセージに出会う恵みがある。この恵みを私たちの「誇るべきもの」としたい。