神と共に歩んで

芹野 創 牧師

 

正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい(テモテの信徒への手紙一6章11節・12節)

 

旧約聖書アモス書は北イスラエル王国への裁きと滅亡を預言した言葉である。預言者アモスが語った言葉は宗教の形骸化と社会の不正を指摘するものであった(アモス8:4-6)。「富に依存する者は倒れる。神に従う人は木の葉のように茂る」(箴言11:28)とあるように、利益追求が目的となるとき人は信仰から離れやすいということを忘れないでいたい。

ヨハネ福音書を除く3つの福音書では「金持ちの青年」の物語が記されている。この物語は「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」という問いから始まる。しかし「持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」というキリストの言葉を聞いた金持ちは「悲しみながら立ち去った」という。テモテの手紙の言葉が重なる。「金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。しかし、神の人よ、あなたはこれらの事を避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい」(テモテ一6:10-11)。「永遠の命を手に入れる」という点は同じである。しかし人は自らの努力によって信仰の人生を歩むのではない。金持ちの人が「悲しみながら立ち去った」後、キリストは「それは人間にはできることではないが、神は何でもできる」と語った。物質的にも経済的にも豊かな時、または反対に厳しい時ほど、人は「どんな善いことすれば」という思いに支配されてしまうのかもしれない。

 

「老い」に関するエッセイを多く執筆されている勢古浩爾さんが昨今抱いている違和感が「人生、楽しまないと損」という価値観の流布だという。「食べ放題は元を取るまで食べなきゃ損などのコスパ(費用に見合った価値の大きさ)とか、最近では「短時間で最大限の効果を上げる○○法」などの、タイパ(かけた時間に対する価値の大きさ)なんて言葉が出てきて、何だか「ちょっとでも得しなければ」という風潮に辟易します。これには全世代が煽られているように感じます」。

 

人生は損得勘定では測れないことを改めて知り、「どんな善いことをすれば」という「自己努力にしか目を向けない思い」から解放されたい。人は「どんな善いことすれば」という思いにつまずき、悲しむのではない。「それは人間にはできることではないが、神は何でもできる」。キリストの十字架を信じ十字架に委ねて神と共に歩む日々を送りたい。