十字架という福音のしるし

芹野 創 牧師

 

わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません(ヤコブの手紙2章1節)

 

経済的な格差の開きは聖書の時代にも存在していた(ヤコブ2:2-4参照)。本来、神には差別や分け隔てはないはずだが、この世の習慣や身分、その時代の風潮が教会の中にも広まっていくことがある。しかし教会は時代を見る目を養い真理を祈り求め、またこの世の社会構造をよく知ることにも努めなければならない。

景気の停滞や非正規雇用の拡大で日本の若年層にも貧困が広がっていると言われている。困窮者支援を続ける社会福祉士の藤田孝典さんは「エッセンシャルワーカーと呼ばれるような労働の多くが非正規雇用の若者に充てられています。世の中のために不可欠な仕事を、誰かに低賃金で押し付けることで成立している今の社会状況は深刻な問題を抱えており、賃金を上げる、制度で支援するといった対策や仕組みが必要なのです」と語る。社会構造や政策によって生じる経済格差は教会が解決できる課題ではないが、教会は「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉を語るだけであってはならない。「隣人を自分のように愛する」ということが一般化できないということに向き合い、福音の真理を示し続けるのが教会に与えられた使命である。

 

D・ボンヘッファーという神学者は「人と交わることのできない人は、一人でいることに注意しなさい。一人でいることのできない人は、交わることの注意しなさい」という言葉を残した。これは自らの性格をよく知った上で、隣人とどのように関わるべきかを考えさせられる言葉であるように思う。大切なことは隣人との関わりを通して自分自身の姿を知るということである。その意味で隣人とは自分自身の鏡である。この時、私たちはその鏡の中に「隣人の背後に立つキリストの存在」に目を向けるかどうかが問われるのである。

 

旧約聖書アモス書には「お前たちは災いの日を遠ざけようとして不法による支配を引き寄せている」(アモス6:3)という言葉がある。隣人が自分自身の鏡でなくなる時、隣人の背後に立つキリストの姿を忘れる時、人は権力、お金、社会的立場を利用して支配を始める。「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉を通して、隣人とどう関わるのかを考えなさい。「不法による支配」を人生に引き寄せてはならない。これが聖書の示す指針の一つである。「不法による支配」を断ち切るために神は私たちの人生に十字架という釘を打ち込まれた。キリストの十字架は「不法による支配」を断ち切る「福音のしるし」である。