キリストによって

芹野 創 牧師

 

わたしは、あなたのなすべきことを、キリストの名によって遠慮なく命じてもよいのですが、むしろ愛に訴えてお願いします(フィレモンへの手紙8章9節)

 

フィレモンへの手紙はパウロが奴隷オネシモをフィレモンのもとに送り返すという内容を綴った、極めて個人的な手紙である。旧約聖書レビ記において記されている奴隷の考え方の中にヨベルの年に関する記述がある。ヨベルの年は様々な事柄を一度リセットして新しく歩み出す機会である(レビ記25章参照)。新約聖書ではキリストの十字架と復活の出来事にヨベルの年が重ねられていく。「キリストによって」全てが新しくされるという信仰が人間再生の鍵となったのである。

人間は誰でも生まれ変わることができるという確信の根底に「愛」がなければならない。しかしパウロは愛が必要であることを告げるために、あえて「オネシモを愛しなさい」と命令することを避けたようである。「わたしは、あなたのなすべきことを、キリストの名によって遠慮なく命じてもよいのですが、むしろ愛に訴えてお願いします」(フィレモン8-9)。「わたしは、祈りの度に、あなたのことを思い起こして、いつもわたしの神に感謝しています。主イエスに対するあなたの信仰と、聖なる者たち一同に対するあなたの愛とについて聞いているからです」(フィレモン4-5)。感謝から始まる言葉がここにある。

 

アメリカの小説家、J・D・サリンジャーの小説『フラニーとゾーイー』について辻山良雄さんが次のようなエッセイを綴っている。「この作品は「フラニー」「ゾーイー」と、それぞれが独立した短編にもなっているが、「フラニー」のテンポのよさに比べ「ゾーイー」は家のなかから場面が動かず、展開が随分と緩慢に思えたのだ。しかしいま読み返してみると、「ゾーイー」に見られるドア越し、ときに電話を通じて行われる会話の応酬は、その「動かないこと」が効果的な装置となっていることに気がつく。場面が動かないということは、ことばで相手を説得するよりほかはなく、その技巧や真心が試されるのである」。

 

ことばで相手を説得するよりほかない時に問われるのは「どのように語るのか」である。その時に真心が試されるならば、その真心が「キリストによって」全てが新しくされるという信仰を土台とするものでありたい。「キリストによって」全てが新しくされるという信仰は、お互いの関係性をさらに豊かなものとする鍵でもある。それはキリストが十字架を背負うからである。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊された」(エフェソ2:14)のだから。