神の業に託して

芹野 創牧師

 

あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています(フィリピの信徒への手紙1章6節)

 

「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」(フィリピ1:6)。パウロは「キリスト・イエスの日」という信仰者の将来を示している。「キリスト・イエスの日」とは神の国の到来である。「キリスト・イエスの日」という「神の国」を求めることは、「明日のことをどうしようか」という将来への不安と深く関わっている(マタイ6:31-34参照)。私たちはどのように将来を思い計っていくべきなのだろうか。

創世記のノアの洪水物語では、人間という存在が「常に悪いことばかりを心に思い計っている」(創世記6:5)存在として描かれる。しかしこの「思い計る」という表現は、同じ旧約聖書の中でも「良い意味」で使われる場面もある(歴代誌上29:18等)。人は決して悪いことばかりを思い計るわけではない。人は神のため、他者のために自ら労苦を背負ってでも最善を尽くそうと思い計ることができる存在である。

 

「日本教育新聞」に「教育長の独り言」というコラムがある。宮崎県延岡市の教育長の独り言として「教育の効果とはどのように検証されるべきか」といった内容の言葉が掲載されていた。自ら目標を設定し振り返り、責任を持って行動するための羅針盤は「先進事例や優良事例といった具体にではなく、なぜそうした決断と選択をしたかという思考にある。思考そのものが問われる」と語っている。私たちは将来を思い計る思考を大切にしなければならない。思考が全ての始まりとなるのである。「キリスト・イエスの日」という「神の国」を求めつつ、正しく将来を思い計る思考を養っていきたい。

 

私たちが思い計る将来とは「キリストが人生の喜びも悲しみも全てを整えて下さる日が来る」ということである。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」。私たちはキリストが人生の全てを整えて下さることを信じて生きるのである。なぜならキリストが私たちの人生において、十字架ですべての悪を引き受け、すべての痛みや悲しみ、苦しみを引き受けて背負ってくださり、復活によってもう一度新しく一歩を踏み出し、過去にばかりとらわれるのではなく、正しく将来を思い計るように背中を押してくださるからである。キリストの十字架と復活という「神の業」に私たちは人生を託していく者でありたい。