これから来られる方

芹野 創 牧師

神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。わたしはアルファであり、オメガである(ヨハネ黙示録1章18節)

 

預言者エレミヤが活躍したのは紀元前627から586年の約40年間であると推測されている。この40年は大きな激動の時代でもあった。すでに北イスラエル王国は滅亡しており、エレミヤのいた南ユダ王国も末期を迎える時代だった。このような激動の時代の中で預言者エレミヤは、神の計画の言葉を告げた。「このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない」(エレミヤ23:3-4)。

エレミヤ書は南ユダ王国が滅亡した理由として「主なる神を忘れて偶像の神を礼拝した罪」、「神殿での礼拝が信仰の伴わない形だけのものとなった罪」、「王たちが主なる神ではなく軍事大国エジプトに頼った罪」を挙げている。それは「軍事大国エジプトとの外交政策」と、それに連動するようにして生じた「価値観の変化」、「信仰の形骸化」である。何が国を滅亡へと追いやるのか。その理由は一つではない。だからこそ時代にも場所にも縛られない福音が人間には必要なのである。「主は我らの救い」と呼ばれる指導者に期待された事柄を私たちは詩篇の中に見い出す。「王が正しくあなたの民の訴えを取り上げ、あなたの貧しい人々を裁きますように。王が民を、この貧しい人々を治め、乏しい子らを救い、虐げる者を砕きますように」(詩篇72:2-4)。この理想の王こそイエス・キリストである。

 

人間同士の繋がりが希薄になっている中で「匿名社会で孤立する子育て」があることを記す教育新聞の記事がある。記事を通して何気ない日常の挨拶から「何か劇的な変化だけが人に幸いをもたらすのではない」ことを教えらる。何があってもぶれることなく「何も変わらない」という普遍性にこそ幸いがあるのではないだろうか。ヨハネ黙示録では「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。わたしはアルファであり、オメガである」(ヨハネ黙示録1:18)と語られる。ここには今も昔も、そしてこれからも決して変わることのない神の姿が示されている。

 

貧しい者、傷つく者、悲しみ痛む者に心を砕かれるキリストは、十字架を背負って貧しく、傷つき、悲しみ痛む者になられる方である。このキリストはかつてこの世に来られ、今、共におられ、これから来られる方でもある。時代にも場所にも縛られない福音がある。