みことばを聞く者

芹野 創 牧師

 

ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、『見よ、神の小羊だ』と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った(ヨハネによる福音書1章35節〜36節

 

 「心を尽くしてわたしはあなたを尋ね求めます。あなたの戒めから迷い出ることのないようにしてください。わたしはあなたの命令に心を砕き、あなたの道に目を注ぎます」(詩篇119:10,15)。しかし様々な不安で心が穏やかでいられない時、私たちは本当に目を向けなければならないことがわからなくなることがある。そのような時、私たちは「聞く」ということに心を砕かなければならない。

 

 詩篇では「わたしはあなたの命令に心を砕き、あなたの道に目を注ぎます」と記される。サムエル記では預言者サムエルの幼少期の物語の中で、サムエルを育てた祭司エリについて「彼は目がかすんできて、見えなくなっていた」と記されている。そのような中、神の声を聞いた幼いサムエルはエリが自分を呼び寄せたのだと思いエリのもとに行くが、すでに「目がかすんで見えなくなっていたエリ」は幼いサムエルに「どうぞお話しください。僕は聞いております」と答えることを教えた。ヨハネ福音書では洗礼者ヨハネの「見よ、神の小羊だ」という言葉が記される。ヨハネの二人の弟子はその言葉を「聞いて」キリストに従った。人は「見えなくなる」を通して「御言葉を聞く」者に変えられる。キリストに出会う者は誰でも「御言葉を聞く」者なのである。

 

 日本語の学者の金田一秀穂さんは「言葉を発する時の誠実な思い」の大切さを語っている。わかっている者同士で通じる言葉を楽しんだ事例として、昨年の阪神タイガース優勝を「アレ」と表現して選手やファンの間に広まったことを挙げている。「アレ」で通じることで仲間意識が育まれるが、心が通い合う本当のコミュニケーションにはお互い相手の「気配」というものを感じながら話すことが大事だと語る。どんなに便利な世の中になっても相手の気配を忘れないでいたい。私たちにとって「御言葉を聞く」ということはキリストの「気配」を何とか感じ取ろうとすることである。

 

 ヨハネ福音書ではキリストの十字架まで、ひたすら「見よ」と呼びかけ「見ること」「見つめること」を諭している。その対象は「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)としてのキリストである。しかしキリストの十字架が見えなくなる時がある。そのような時、私たちはキリストが十字架を背負って神への赦しを執りなして下さったことを思い返し、いつもキリストの「気配」を求め「御言葉を聞く」ことで平安を取り戻すのである。