心に据えられた十字架

芹野 創牧師

あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする(ヨハネによる福音書8章32節)

 

「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:32)というキリストの言葉に多くの人がつまづいた(ヨハネ8:33-36)。「罪の奴隷」という言葉は人間の様々な姿を集約する言葉でもある。お金のためなら何でもする「お金の奴隷」、自己実現のためなら手段を選ばない「自己実現の奴隷」、常に誰かとの比較と競争の中で生きている人は、他者との比較と競争の中でしか自分の価値を見出せない「優越感と劣等感の奴隷」だと言えるだろう。人間は何かしらの奴隷なのである。様々な奴隷状態から解放してくれる「真理とは何か」という問いかけは、十字架の場面まで引き継がれていく。ローマの総督ピラトはまさに「真理とは何か」と問いかけた。しかしその答えが示されないまま、聖書は十字架の場面を描いていく。実に「真理とは何か」という問いは、キリストの十字架とセットになって私たちの中に残り続けていくのである。

 

 一方「自由」という言葉をめぐって私たちが考えておくべきことの一つは「自由と制限」である。少子化社会に対する「焦り」が社会的な注目を集めている。「何かをすればそれなりの成果が得られる」という予測はその通りである。しかし教育や人間の成長の考える時に「何をするか」ということばかりに目を向けていているだけでは気づかないこともある。「何をするか」と当時に「何をしないか」という視点を忘れないでいたい。

 

 「何かを制限する/何かを制限される」ということは「自由」の反対ではない。むしろ「制限」は「自由」の必要条件である。私たちは「制限」と「束縛」は違うということに気づかなければならない。「人間が何かしらの奴隷である」というときの「奴隷」とは、私たちの生き方が「何ものかに束縛されている状況」を指しているのでる。私たちは「束縛からの自由」を求めていかなければならない。しかし「束縛」から自由にされたとき、私たちの生き方を真心をもって「制限してくれるもの」が必要なのだということ忘れてはならないのである。それは私たちの内に恵みと憐れみと平和をもたらすものだからである。

 

 そして人の生き方を真心をもって「制限してくれるもの」が十字架という形で示されている。神の恵みを忘れ、憐れみを忘れ、心も暗く傷ついている時に、私たちの心に十字架が据えられるのである。「あなたは何をしているのか」、「あなたはどこを向いているのか」。私たちの心に据えられた十字架からの問いかけが、私たちの生き方を変えていく。