祈りを保つために

芹野 創 牧師

 

あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない(ヨハネ5章14節)

 

ヨブは苦しみと嘆きの中でどうしたら神を見出すことができるのかを問うている(ヨブ23:2以下)。しかし「神はわたしの歩む道を知っておられるはずだ」(ヨブ23:10)という確信を抱いた。このとき私たちが知るべきことは、ヨブは苦しみの中で神に祈ることを諦めなかったということである。神の前に沈黙することと祈りを捨てることは同じではない。言葉を心の内に秘めつつ神に思う静かな沈黙もまた、信仰に満ちた祈りである。忍耐することは我慢することではない。「忍耐」と「我慢」は違うのである。忍耐とは苦しみも状況が変わらなくても神への祈りを保ち続けることである。その継続こそが忍耐なのである。

 

 本日の礼拝テーマは「いやすキリスト」である。ヨハネ福音書5章には38年間も病気で苦しんでいる人が登場する。この人は「自分が病人である」ということを一番の理由に掲げ、自らの人生を「我慢」してきた人ではないだろうか。「わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです」。この切実な言葉は「我慢」に「我慢」を重ねる苦しい人生であったことを示すような言葉である。しかし「我慢」と「忍耐」は違う。

 

 私たちにとって大切なことは、神への祈りをどのように保ち続けていけば良いのかということである。その答えが物語の後半や詩篇の中に示されている。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない」(ヨハネ5:14)、「主にわたしの背きを告白しようと。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを赦してくださいました」(詩篇32:5)。私たちは「罪」を悪とし「罪」から離れねばならない。しかしそれは「罪」に背を向けることではない。

 

 2019年8月に開催された「表現の不自由・その後」が、「平和の少女像」や昭和天皇を題材にした作品を標的とする脅迫状により開幕三日で中止となった出来事に触れた詩人・河津聖恵さんは「タブーと向き合えない弱さ」という言葉を語っている。「タブーと向き合えない弱さ」は今日も尚、日本社会の本質的な課題であり続けている。そして人間は「罪とは何か」を定義することで、本当に目を向けなければならない問題を見事に「すり替える知恵」を手にしてしまったのである。

 

 「罪の告白」と「救いの確信」が神への言葉と祈りを保ち続ける力である。「罪の告白」は私たちをキリストの十字架のもとに導く。そして「救いの確信」はこのキリストの十字架もとから始まるのである。ここに「いやすキリスト」がいる。