光のあるうちに

芹野 創 牧師

暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。(ヨハネ福音書12章35節)

 

 「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」(ヨハネ12:21)とギリシア人たちが仲介を頼んだ相手は弟子のフィリポであった。ヨハネ福音書は福音が広がっていく時のキーパーソンとなる人物としてアンデレとフィリポを描いているのかもしれない。考えてみると私たちが直接キリストに出会うということはないのである。福音に出会う時、そこには必ず誰かの祈りや言葉、手助けがあり、何かしらの仲介があるのである。福音は何人もの人を仲介して豊かに広がっていくのである。そして福音が豊かに広まっていくための一番最初の出来事が十字架なのである。キリストは十字架の時がやって来たことを語る。「人の子が栄光を受ける時が来た」(ヨハネ12:23)。福音は一人で広めるものではない。しかし福音はたった「一粒の麦が地に落ちて死ぬ」ことから始まるのである。

 しかし「暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。」(ヨハネ12:35以下)とあるように、神の「栄光」としての十字架と復活の出来事を信じるということは私たちの側だけの問題ではない。そこには「時」を支配する神が関わっているのである。

 

 1972年の『成長の限界』から50年を機にスイスに本部を置くシンクタンク「ローマクラブ」が2022年に発表した新たなレポートの和訳として出版された『Earth for All 万人のための地球』という本が「日本教育新聞」の書評で紹介されている。世界的な課題について、これらの問題提起をどう受け止めていくかが問われると紹介している。

 

 世界の喫緊の課題を提示しその解決策を見出し実行していく時に、忘れないでいたいのは「それを成しうるだけの力がきっと人間には備えられている」という人間への信頼である。しかしこの「人間への信頼」を脅かすものがある。それが「人間の傲慢さ」である。しかし「人間の傲慢さ」と「人間への信頼」を丁寧に切り分けていくことは簡単ではない。

 

 「むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません」(コロサイ2:8)。「世を支配する霊」によって、人のとりこになり私たちは「人間の傲慢さ」と「人間への信頼」を丁寧に切り分けていくことが難しいのである。しかしこの「世を支配する霊」を十字架に釘つけ、打ち砕くためにキリストは十字架を背負われたのである。このキリストの十字架を信仰の内にいつも思い返すからこそ、私たちは「光のあるうちに」歩んでいくのだ。