愛の火を絶やさず

芹野 創 牧師

イエスはシモン・ペトロに、『ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか』と言われた。(ヨハネによる福音書21章15節)

 

十字架の直前まで人は神に向かって「神さま、なぜですか」と「問いかける存在」であったことが描かれている(ヨハネ13:36-38参照)。しかしキリストの復活の後、人は「問われる存在」として描かれていく。キリストはペトロに対して三度「わたしを愛しているか」と問われた。人は様々な状況の中で自らの生き方を問われる存在なのである。

 いつも共にいてくださる神が人に問われる最も大切なことは「愛」である。復活のキリストが「愛」を問われたのは、私たちが、争いと混迷に満ちた現実の中で「愛など説いても意味がない」と愛の火を小さく軽んじることのないように、愛の火を絶やさず生きるようにという願いを持っているからである。しかしペトロはキリストの「愛」の問いかけに対して簡潔に答えることができなかった(ヨハネ21:15)。ペトロの返事は「否定」ではなかったが確信に欠けた返事だった。しかしキリストは私たちの確信に関わらず「わたしの羊を養いなさい」と新しい使命を託されるのである。トルストイの寓話「靴屋のマルチン」のように、私たちの周りには様々な姿をした「わたしの羊」がいる。そして私たちはいつも復活のキリストから「わたしの羊を養っているか」と問われつつ生きるのである。

 

 「ローマの哲人セネカの言葉」という本が出版されている。セネカはローマ帝国の政治家であり哲学者である。様々なセネカの言葉の中に次の言葉がある。「我々が配慮しなければならぬのは、満足して生きることです。なぜなら、長く生きるかどうかを定めるのは運命ですが、満足して生きることは当人の心掛け次第だからです」。満足して生きることとは、自分の人生に「納得」して生きることでもある。人生の「納得」は必ず自分自身で出会い、選び取り、導き出した答えに支えられていく。だからこそ私たちはいつも「問いかける側」にいてはならないのである。

 

 イザヤ書62章は「国の回復」を預言する言葉となっている。国の回復と救いが「松明ように燃え上がる」という(イザヤ62:1)。それは「愛の火」である。「わたしの羊を養っているか」というキリストからの問いかけに、愛の火を絶やさず、救いの松明を燃え上がらせ福音を語ることが教会に連なる者の使命である。それは私たちがキリストの十字架と復活を知っているからである。「見捨てられた」と思っていた悲しみの中にキリストの十字架が共にあり、キリストの復活を通して示される希望があることを知っているからである。