霊の結ぶ実を信じて

芹野 創牧師

 

世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい(ヨハネによる福音書15章18節)

 

 人は自分の目から見れば「異質」に見える価値観や生き方をする存在を恐れ、関わりを持たないようにと排除し、時には憎しみを抱いて敵視することもある。それは私たちの歴史の中に刻まれた痛ましい出来事を生み出す要因であり、基本的な人間の本能であるということを無視することはできない。「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい」(ヨハネ15:18)。キリスト自身もこの人間の本能に振り回され、多くの憎しみや敵意を背負われた。しかしキリストは人間の本能的な働きとして表出する憎しみに打ち勝つために「愛」を語り、その愛を実践されたのである。

 憎しみに打ち勝つ術として告げ知らされた「愛」は感情ではなく意志である。「愛」は感情も含んでいるが、人間の持つ本能的で自然な感情に打ち勝つ意志なのである。

 

 辻井喬さんは「芸術というのは一方に、美しいもの、美しさで感性に訴えて感動を与えるものがあります。その一方で人間の醜さ、汚さのなかにこそ詩が生まれる、路上にこそ詩がある、という考えかたもある」と語る。人間が芸術に惹かれ、癒しと慰めや、娯楽のために芸術を必要とするのは、芸術が感覚的なもの、感性的なもの、感情的なもの、情熱的なものを土台にしつつ、人間の美しさと醜さという人間の「矛盾」や「葛藤」を代弁するものだからであろう。様々な葛藤や悩みがあっても「確固たる意志を持って生きることが必要なのだ」ということを教えてくれるのもまた芸術なのではないだろうか。この時私たちは、人間の意志が揺らぎ挫けてしまう時でも、この世には変わらざる意志があることを覚えたい。それは預言者を通して何度も人間の回復を告げる「神の愛」である。

 

 「神の愛」は、憎しみという感情に打ち勝つ意志を私たちの内にもたらしてくれるものである。ガラテヤの信徒への手紙では、人間の本能的な感情を「肉の業」という言葉で説明し、それに対峙するものとして「霊の結ぶ実」があることを告げている(ガラテヤ5:16以下)。このとき問題になるのは「霊の結ぶ実」が実るかどうかである。実際の果実が実を結ぶために、様々な手入れや努力が必要であるように、「霊の結ぶ実」を実らせるための惜しまない労苦がある。それがキリストの十字架である(ガラテヤ5:24)。キリストは「真理の霊がわたしについて証しをする」(ヨハネ15:26)と語った。私たちは憎しみに打ち勝つ「愛」の意志を決して手放さなかった十字架のキリストが共にいることを思い起こすのだ。