霊によって生まれる

芹野 創 牧師

 

わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている"霊"について言われたのである(ヨハネによる福音書7章39節)

 

宗教とは「人はどこから来てどこに行くのか」という問題を問い続ける出来事である。キリストは御自分がどこから来てどこに行かれる方なのかを語る(ヨハネ7:33以下)。ローマの信徒への手紙は「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです」(ローマ1:3)と記している。人は多くの場合、出身地という意味での「生まれ」は理解できても、「霊によって生まれる」という表現が何を意味しているのか理解できない。そこでキリストは「渇き」という言葉を使って、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている"霊"について言われたのである」(ヨハネ7:37-39)と語る。ここでいう「渇き」とは人生における慰めや喜び、生きる力を見失っている状態であり、それは「喉の渇き」とは違って、そう簡単に潤すことのできない「霊的な渇き」である。この「霊的な渇き」を経験する中で神の言葉に出会い、慰めを受け、喜びと生きる力を手にする出来事が「霊によって生きる」ということである。

 「不登校」という言葉の定義を巡っての論争があるようだ。多くの場合「不登校」と「長期欠席」が混同され、ほとんどその違いが意識されず理解されているためだという。「不登校」とは国の「長期欠席」の調査における理由項目の一つに過ぎない。「不登校」という言葉で一括りにし一般化することは楽であるが、個別の課題は見えなくなる。霊的な渇きを経験し神の言葉に出会い、慰めを受け、喜びと生きる力を手にする出来事も決して一般化できないものである。「霊によって生きる」という出来事は個々の体験を通して、自ら求めていかなければ手にすることのできない出来事なのである。

 

 キリストは十字架にかけられる前に御自分が十字架を背負っていくことの意味を弟子たちに告げた。「わたしの父の家には住むところがたくさんある。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。」(ヨハネ14:1-3)。キリストは私たちがいつも神と共に歩む者となることを祈り、そのために十字架を背負われた。私たちは誰しもが人生の中で「霊の渇き」を経験し、「霊によって生まれる」機会が与えられている。「霊によって生まれ」、神の子として歩む者でありたい。