霊が与えられる確信

芹野 創 牧師

 

一同が一つになって集まっていると、一同は聖霊に満たされ、"霊"が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した(使徒言行録2章1節〜)

 

「一同が一つになって集まっていると、一同は聖霊に満たされ、"霊"が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した」(使徒2:1,4)。これがキリスト教の世界宣教の第一歩となった出来事である。神は全てを整えて宣教を始めるようにされたのではなく、私たちが乗り越えるべき課題、考えるべき事柄を備えられる。それは私たちの人生でも同じである。神は必ず必要なものを備えてくださる。しかしそれは私たちの人生に「思い悩みや不安が存在しない」という意味ではない。人は悩みつつ、祈りつつ神が備えていてくださるものを見出し、それぞれの人生を歩んでいくのである。そしてこの時、「霊」の力、「霊」の助けが必要なのである。

 

 エゼキエル書37章では「我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる」(エゼキエル37:11)という失意の中で「霊」を受けた者が再び自分の足で立ち上がり、歩むべき道を歩み出す出来事を象徴的に描いている。しかし同時にこの箇所で示されていることは、人は基本的に「霊を失ってしまっている」ということである(エゼキエル37:8)。人間にとって最も危機的な事柄の一つは、もはや「霊」を求めることなく「生きた屍」になってしまうことである。

 

 全日本私立幼稚園幼児教育研究機構の冊子の中で、子どもの甘えとわがままを巡る親の態度に関するお話を紹介されていた。大人が壁になって遮らないために簡単に子どもの思いが通ってしまうことが子どもの成長にどのような影響を与えるのかが綴られる。人は人生の中できちんと「壁」に出会っていかなければならない。そうでなければ、「壁」を乗り越えることではなく、「壁」に出会わない生き方求めていくだろう。「壁」をきちんと経験しなくなれば、もはや人は「霊」を求めなくなっていく。ここに人間存在の危機がある。

 

 神は私たち一人ひとりに困難な「壁」を与えられる。私たちは困難な「壁」から逃れたいと思うことがある。しかし私たちは神が備えられた「壁」に確かに出会っていかなければならない。私たちが「霊」の力と助けを豊かに求めるためにである。そして「霊」の力が必ず与えられるという確信を持っていたい。その「霊」はキリストの語った言葉を思い起こさせてくれるという(ヨハネ14:26)。キリストの十字架と復活の出来事を人生の中に留め、新しい世界に向かって生きていく力を与えてくれる聖霊の力を求めていきたい。