芹野 創牧師
正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい」(テモテへの手紙一6章11節)
「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい」(テモテ一6:11)。しかしそれらはいつも状況によって変わってしまうものである。人間は置かれた状況や立場に中で、正義、信仰、愛、忍耐、柔和とは何かということを求められる。聖書の示す倫理的な事柄は、状況によって捉え方が変わってゆく「状況倫理」である。どんな時代状況の中でも生き延びていく普遍的なメッセージがある。状況によって「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和」の捉え方が変わってしまうからこそ、私たちはこれらの事柄を具体的に求め続けて生きるように勧められている。今、私たちにとって大切なことはこれらの事柄にどの程度の関心を抱いて生きるかである。
「移民問題」に関する本を多数執筆されている鈴木江理子さんが、日常生活に溝む「無意識の差別」について語っている。「出入国在留管理庁の在留外国人調査を見ると、「特に差別を受けたことがない」という回答は4割程度です。つまり過半数の外国人が何らかの差別を受けているということです。意図的に差別をしようとする人は少数派だと思いますが、私も含めて、知らず知らずのうちに相手を傷付けてしまうことがあるはずです」。
「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和」を求め続けていくことが「無意識の差別」を乗り越えていく力になるのではないだろうか。これらの事柄に関心を抱いて生きていくために聖書はたった一つの非常にシンプルな視点を私たちに告げている。それは「私」という主語を「私たち」に変えるということである。
ヨハネ福音書では、私たちに「真理の霊」を与えるというキリストの約束が記されている。ヨハネ福音書特有の表現で「弁護者」という言葉で記される「真理の霊」は、聖書の原文では「パラクレートス」と言い、「~から呼ばれた者」「支援のために呼び寄せられた者」の意味を持っている。そこから「弁護者」という訳が充てられている。人が独りで苦しみ悩むとき、その人のために「呼び寄せられる者」がいる。この「弁護者」である「真理の霊」こそ「私たち」の正体である。「真理の霊」は人の痛み、悲しみを背負う霊であり、人を癒し慰める霊であり、希望の霊である。そしてそれはキリストの霊であり、いつも私たちと共にいる霊である。この「真理の霊」は、自分の都合と利益しか見えなくなる時、「私たち」という視点を思い起こさせてくれる霊である。