高ぶることなく

芹野 創 牧師
さて、子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい。そうすれば、御子の現れるとき、確信を持つことができ、御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがありません。(ヨハネの手紙一2章28節)
預言者ハバククはこの世界が「悪と不正であっていいはずがない」という信念を持って、「なぜ神は何もなさらないのか」と嘆く人であった(ハバクク1:1以下)。しかしその嘆きに対して示された神の答えは「人間の高慢さ」であった。「見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない」(ハバクク2:4)。人間の抱く「正義感」と「高慢さ」が実は隣り合わせであるということが示されている。私たちは「正義」や「愛」という美しい言葉を盾にしたとき、自分自身の姿が見えにくく、驕り高ぶる存在になりやすいのでる。

 

「神への祈りを忘れた高慢さ」とは何かということを考えるヒントを与えてくれる人の言葉がある。今年の4月に亡くなったピアニストのフジコ・ヘミングさんの言葉である。フジコさんは「魂のピアニスト」と呼ばれたピアニストである。フジコさんは次のように語っていた。「私が世界で一番うまいなんて思っているんじゃなくて、私は自分のカンパネラが一番気に入っていて他の人の弾き方が嫌いなのよ。完成なんて人間にはあり得ないですね。どんな人もどんな芸術家も。天国に行ったらモーツァルトやショパンに会って、あれでよかったかと聞いてみますよ。絶対あれでよかったです、すばらしかったですって言うだろうと思うよ」。

 

「自分が一番」だと思っていたなら「魂のピアニスト」とは呼ばれなかったのではないだろか。人間の高慢さは自分と他者との間に優劣をつけてしまうところから始まる。人間の抱く「優越感」や「劣等感」は人間の本質に関わるテーマである。ピアニストとしての優劣ではなく、自分の世界を豊かに深めていくフジコさんの言葉は、「神への祈りを忘れた高慢さ」について考えるヒントとなるだろう。「神への祈りを忘れた高慢さ」とは自分の人生の中に「神」がいないということだけではない。そこには「他者に対する優越感」しかないのである。しかし私たちが「高ぶることなく」生きていこうとするなら、私たちは神を求めなければならない。人が驕り高ぶる高存在になる時、そこに神はいないのである。

 

ヨハネの手紙では「教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい」(ヨハネ手紙一2:24以下)と勧められている。「御子の内にとどまる」ということはキリストの「謙遜さ」を忘れないということである。その「謙遜さ」は十字架の中に示されている(フィリピ2:6以下)。私たちがいつも神に祈る者となれるように神は霊を与えられる(ヨハネ手紙一2:27)。