このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。(ヘブライ人への手紙12章28節)
苦難や悩みを経験する中で、人は人生の指針となるような「確かなもの」、「揺るぎないもの」を求めていくものである。個人的にも社会的にも様々な出来事に心が落ち着かず、どのように生きればよいのか、どこに希望があるのかがわからなることがある。聖書は「揺り動かされることのない御国」(ヘブライ12:28)があり、その御国を受け継ぐことについて語っている。しかしそれは自然に訪れるのではない。「語っている方を拒むことのないように気をつけなさい」(ヘブライ12:25)。そこには神との対話を繰り返す生き方が求められているのである。それは同時に他者との対話を大切にする生き方でもある。
私たちは主の祈りを通して「御国を来たらせたまえ」と祈るように教えられている。しかし「御国」は対話の欠けた一方的な祈りの中から生まれることはない。ここに神の国を祈り求め続けていくことの難しさがある。しかし私たちは聖書を通して、揺るぎない御国を受け継ぐ者の姿を知ることができる。「御国を受け継ぐ者」は社会の大きな流れの中ではおそらく埋もれてしまう、無名の一人ひとりなのである。その一人ひとりとの関わりは私たちそれぞれの出会いと対話の中で深められるのである。
小学館から出版されている『ぼっち死の館』という異色の漫画がある。登場人物の一人は漫画を描く人物である。彼女はある男性住民の孤独死をきっかけにして、この男性の人生を漫画のストーリーにできないかと思いつく。しかし実際の男性の人生は「話」として簡単に割り切れるものばかりではないことに気付かされる。単純明快なスッキリとした、分かりやすいストーリーに回収できない、個々人の人間の悩みや価値観をそのままの形であえて提示していく作品となっている。
預言者ミカは「御国を受け継ぐ者」は社会の大きな流れの中で埋もれ、また様々な形で「苦難や悩み、悲しみを経験した者」であることを語る(ミカ4:6,7)。スッキリとした分かりやすいストーリーに回収されない人生がある。「その日が来れば」という聖書の言葉に希望を託しつつ、現在進行形で日々悶々と考えるような事柄がある。
私たちは神との対話、他者との対話を繰り返しながら、人の苦しみや悲しみ、嘆きを知り、その思いを十字架の重荷として受け止め、共に痛みながら背負っていかれるキリストに出会うのである。この十字架のキリストに導かれ「御国を受け継ぐ者」とされたい。