惜しまず与える神

芹野 創 牧師

キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。(エフェソの信徒への手紙2章17節〜18節)

 

聖書はお互いに「敵意」を抱き対立し合う者たちが「キリストによって一つとされる」出来事を記している(エフェソ2:11以下)。しかし対立から和解に向かう過程で、人と人との和解に先立って「十字架を通して神と和解する」(エフェソ2:16)という順序があることを私たちは見落としてしまう。現実的には人と人との和解の方が神との和解に先立っているように見えるからである(マタイ5:22以下参照)。私たちは和解によってもたらされる「利害関係」を無視できない。私たちは、自分を無にして死に至るまで従順であったキリストの十字架を知っていてもどこかで自己の利益を考えようとする存在である。

 

ヨナ書はアッシリア帝国の首都ニネベに行くことを命じられたヨナの物語である。アッシリア帝国はイスラエルの南北両王国の占領を狙う大国であった。ヨナは興味深いことに「ニネベの町は滅びる」と語るだけで「悔い改めれば救われる」とは語らない。ここに国の存続をかけた「利害関係」がある。アッシリアの滅亡はヨナにとって好都合なのである。しかし神がニネベの町に対して災いを下すことを思い止まると、ヨナは不満を語る(ヨナ4:1-2)。そのヨナの不満を解消したのは「とうごまの木」が作る木陰であった。しかし「とうごまの木」が枯れてしまうと再びヨナは不満を抱く。様々な事柄に左右され、繰り返されるヨナの不満はわたしたちの姿でもある。自分の利益がどこにあり、その利益がどの程度阻害されたかにこだわり、他者との間に生じる「利害関係」に振り回される姿である。

 

佐藤いつ子さんの『透明なルール』という小説がある。「周りからどう思われるか」を気にして、生きづらさを感じる主人公が自分の生き方を縛っている「透明なルール」に気付かされ変わっていく物語である。「敵意」という「敵を作り出す心」には「利害関係」の絡む「透明なルール」の力が働いているのではないだろうか。人は「私」という主語を消すことはできない。「私」を主語にする限り、そこに必ず「利害関係」が存在する。大切なことは何に価値を置くかということである。

 

神は私たちが自分の利益や自分のものを失うことを恐れ、自分のものを差し出すことを惜しむ存在であることを知っている。しかし神は、私たちのために惜しまずキリストを与えられた。人との和解に先立って、私たちはすでに十字架を通して神と和解させていただいた者として、「利害関係」を拭えなくても何に価値を置くのかを自ら決めるのである。