命の回復

芹野 創 牧師

ペトロが皆を外に出し、ひざまずいて祈り、遺体に向かって、「タビタ、起きなさい」と言うと、彼女は目を開き、ペトロを見て起き上がった。(使徒言行録9章40節)

 

本日の礼拝のテーマは「生命の回復」である。弟子たちが宣教活動に遣わされていた時、すでに「女性の弟子」が働いていた。名前をタビタといい「彼女はたくさんの善い行いや施しをしていた」(使徒9:36)と聖書は語る。具体的には寡婦たちに「下着や上着」を作りながら家族を失った寂しさを埋め合わせるかのように交流を深め、作った衣服を施していたと想像できる。しかしタビタは病気のために天に召された。残された女性たちは「生命の回復」を告げるペトロの言葉に出会う。ペトロはひざまずいて祈り「タビタ、起きなさい」(使徒9:40)と呼びかけた。聖書が告げる「生命の回復」とは、「自分の力や行いだけに頼る人生」から「神の言葉によって生かされる人生」に変わっていく出来事である。

 

ホセア書では北王国が行った外交的な出来事が記されている(ホセア12:2)。アッシリアとエジプトという軍事大国に挟まれ、国家の存続を考えた北イスラエル王国が下した決断は、アッシリアと同盟を結びながらエジプトに貢ぎ物を送って国を守るという外交手段であった。しかしそれは風を追うように虚しいことで「本当の救いではない」とホセアは告げる。そのような背景があって「アッシリアはわたしたちの救いではありません」(ホセア14:4)という告白がある。自分の力や行いではなく神の言葉に立ち帰る告白である。

 

江國香織さんの『こうばしい日々』という小説がある。日本で生まれて間も無く家族でアメリカに移った少年の日常を描いた小説である。小説では主人公が出会う「学校の大人たち」が登場する。子どもだからと適当にごまかさずに本質的なことを自分の言葉で語る姿が描かれる。「飛行機のエアポケットみたいにふっと、今だ、っていうタイミングがくるの。今なら物事が動く。タイミングってね、すごく大事よ。人生の中でも、特別大事なものの一つだと思うわ」。自分の力や行いではなく神の言葉に立ち帰るタイミングが人生の中には何度もある。「アッシリアはわたしたちの救いではありません。」という告白が最初からあったわけではないように、神の言葉に立ち帰るタイミングは人それぞれである。

 

タビタが目を覚ますとペトロの手が差し伸べられていた(使徒9:40-41)。人は一人で立ち上がるのではない。人間の不安や恐れを全て十字架で背負い、復活を通して再び立ち上がる希望を示して下さったキリストの福音に生きる「信仰の仲間たち」に支えられ、祈られて、私たちは再び立ち上がるのである。そのような「生命の回復」を味わいたい。