復活の先立つ主の食卓

芹野 創 牧師

主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。(コリントの信徒への手紙一11章29節)

 

イエスの復活の証言を聞き、イエスを救い主として信じる人々が形成した初代のキリスト教会は、次第に多様な生活習慣を持つ人々が集まる共同体になっていったが、同時に教会内部での対立や争いも生まれていた。そこで「キリストの十字架」を「自分と関わりのある出来事」として受け止めるための、具体的な方法が提言された。それが「食事」を通して「キリストの十字架」を想起することである。

 

箴言9章前半は「知恵」が擬人化されて人々を「食事」に招いている様子が記されている(箴言9:1以下)。後半は「愚かさ」が人々を「食事」に招いている様子が描かれる。私たちの社会には「知恵」の発する言葉と「愚かさ」の発する言葉がある。その両者を見極めることは難しい。なぜならどちらも人々の心と体を満たすための「食事」を整え、人々を「食事」に招いているからである。私たちは自らの「経験」と「十字架の想起」を頼りにどちらの食卓の招きに応えるのかを選ばなければならない。

 

「体験格差」という言葉がある。家庭の経済状況などの環境にかかわらず、全ての子どもたちが多様な学びができる社会の実現を目指して「チャンス・フォー・チルドレン」という団体を立ち上げた今井悠介さんという方がいる。今井さんは「経験がないと選択肢を示せません。貧困が連鎖する要因に「体験機会」があると考えています」と語る。しかし人間に必要な経験とは経済状況などの環境に左右されるものばかりではないということも頭の片隅においておきたい。人間には痛み苦しむ経験や「葛藤」に満ちた経験が必要なこともある。そのような経験の中で出口も正解も分からないからこそ、日々神を求めて祈り続ける「継続的信仰」に導かれていくのである。そしてこの「継続的信仰」の中で私たちは「キリストの十字架」を自分の経験と重ね合わせ想起していくのである。

 

「キリストの十字架」を想起する「復活に先立つ食事」は、現実には「食事」の姿ではないことの方が多い。「疲れた者、重荷を背負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」(マタイ11:28-29)。この言葉の後半部分こそ「キリストの十字架」の想起である。「キリストの十字架」を「自分と関わりのある出来事」として受け止めるために提言された「主の食卓」を繰り返し味わっていきたい。