神の霊を受けて

芹野 創 牧師

そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。(コリントの信徒への手紙一2章13節)

 

「お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか」(コリント一3:3)。使徒パウロは「ただの人」ではなく神からの霊を受けた「霊の人」として生きることを私たちに勧めている。本来人間は争いや対立を生むのではなく、神によって創造された「霊の人」であることを思い起こしたい(創世記2章)。「わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました」(コリント一2:12)。しかし私たちが神の霊を受け入れるとはどういうことだろうか。

 

ヨハネ福音書では神の霊を受け入れることを巡る人々の対立が描かれているが、その様子を「一人の人間の心の葛藤」として読むこともできるだろう。神を信じ、神の霊を求め、癒しと慰めを求め、心の平安を求め、イエスを救い主キリストであると信じたい自分がいる一方で、「お前たちまでも惑わされたのか」(ヨハネ7:47)という人々の声が解決の難しい困難な現実と共に迫ってくるのである。この心の葛藤は受け入れ難い目の前の事柄にどう向き合っていくのかという私たちの葛藤でもある。争いや対立ではなく和解と赦しのために神の霊を受け入れることは自分のためではなく共に生きる他者のためでもある。

 

教師のためのサードプレイス「先生の部活動」という取り組みを行うスマイルバトンという企業がある。「対話Practice部」という部活では「相手の話を無条件に受け止める」、「他者と異なる意見も話せる安心感」というルールで二人一組に分かれて、聞き手と話し手が交代し15分のインタビューが行われるそうだ。活動終了後、参加者からは対話を通じて「自分の気持ちを聞いてもらうこと」や「内省が深まり大切にしたいものを思い出した」という声が寄せられたという。対話が内省を深め自分自身を変えていく転機になる。対話の生み出す力と変化が旧約聖書の日課として示されたヨブ記の根底にある。

 

ヨブ記27章でヨブは友人の諭しに反論するようにして「自分が苦しんでいる理由について分からない苦しみ」を告白する。そして28章において神の知恵が語られる。世の霊に従って歩むなら神の知恵は見出せない。神の霊を受け入れるために避けて通ることのできないものが葛藤であり苦しみである。キリストの十字架の苦難を自らの苦しみと重ね合わせ、キリストの十字架に救いと癒しと赦し、慰めを見出すのは神の霊の働きである。苦しみの中にも神の恵みを見出す「霊の人」として歩たい。