芹野 創 牧師
しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、"霊"に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。 (ローマの信徒への手紙7章6節)
出エジプト記には「十戒の再授与」の場面が描かれる。そこにはモーセの「主よ、わたしたちの中にあって進んでください」という言葉がある(出エジプト34:9)。本来、「律法」というものは「私たち人間が神と共にいる」ということを思い起こさせるものである。しかし「律法」を忠実に守る生き方の大きな問題は「律法」が「禁止」か「命令」で成立しているということである。それはつまり人間の存在が常に「禁止」か「命令」でしかないということでもある。そして「禁止」か「命令」は常に誰か他者から発せられる事柄であり、そこに「私」という主語は必要ないのである。
キリストは様々な場面で「あなたはどう思うか」と問うている(マタイ16:15、18:12等)。「あなたはどう思うか」という問いがなければ、私たちの主体性はどんどん失われていく。そこで使徒パウロは「霊」に従う生き方を示すのである。「文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです」(ローマ7:6)。
信仰生活を振り返ってみると「本当に自分は生まれ変わったのだろか」と思うような出来事に直面することがある。人間存在の不条理を主題とする小説を残したフランツ・カフカの言葉がある。「彼は、彫像を彫り終えた、と思い込んでいた。しかし実際には、たえず同じところに鑿を打ちこんでいたにすぎない。一心に、というより、むしろ途方にくれて」。「一心に」やっている時には周囲が見えず、「あなたはどう思うか」という問いかけも聞こえず、むしろどこか機械的に生きる日々が楽で、それが充実しているように錯覚することもある。しかし「一心」は長く続かず、いつの間にか「他方にくれて」いる自分に出会い、人は大きな虚しさを感じる。キリストに結ばれて「新しく生まれ変わる」ということが、いつも自分自身の課題であり続けていることを私たちは突きつけられるのである。
「霊」に従う生き方と「律法」に従う生き方を比較して示すために、パウロは「結婚」を題材に挙げている(ローマ7:2)。ここで言う「夫」は「古い自分」である。「夫が死ねば妻は解放される」という表現は「古い自分に死ねば、霊に従う新しい自分が生まれる」という意味として受け止めるべきである。信仰も福音も「もうこれで終わり」は存在しない。「キリストの体に結ばれて」(ローマ7:4)、私たちは繰り返し主の聖餐に与りながら「霊」に従う生き方に立ち返りたい。