光の主の後に従って

芹野 創 牧師

あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。(エフェソの信徒への手紙5章8節)

 

「実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。すべてのものを光にさらされて、明らかにされます」(エフェソ5:11-14)。聖書は「暗闇」か「光」ではなく「暗闇」も「光」もこの世の現実であることを告げている。その中で聖書は「光の子として歩むこと」を勧める(エフェソ5:8)。そのために2つのことに気を配らねばならない。一つは暗闇の時代の中で神の御心である光を探し続けること(エフェソ5:16-17)、もう一つはそのためにいつも神を賛美し感謝することである(エフェソ5:19-20)。神は私たちに暗闇の時代や暗闇に思える人生の中でも、光を探し続ける道を備えられるのである。

 

本日の旧約の日課は出エジプト記が示されている。「神は民を、葦の海に通じる荒れ野の道に迂回させられた」(出エジプト13:18)。神は約束の土地にイスラエルの人々を導くにあたり、近道を示さなかったのである。苦労も少なく簡単に希望を手にするような道ではなく、挫折や困難、苦しみや悩みに満ちた「荒野」の道を歩みながら、約束の土地に入るように導かれたのである。その暗闇の労苦の中で人は初めて光の導きを知るからである。

 

『文にあたる』という本がある。校正を生業としている牟田都子(むた・さとこ)さんという方の本である。本の中で「『これでいい』と思えることはありません。完璧な仕事をすることなど不可能だと知りながら、次こそはと心に誓い新たなゲラに向かう。十年続けられた原動力は『次こそは』だったように思います」という言葉が綴られる。世に出す限り、ある程度の自信とプライドがあっても不思議ではない。しかしプロの校正者が「『これでいい』と思えることはありません」と語るのである。しかしそれでも次に向かって進んでいくというのである。それは私たちの日常の姿でもある。暗闇のように思える人生の中で光を探し続けることは楽ではない。「課題は解決した」、「もうこれでいい」と言い切ることができるのは、本当に稀なことではないだろうか。

 

どうすれば神の御心を求め、いつも神を賛美し感謝することができるだろうか。キリストは「自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っていいる」(ヨハネ8:14)と語る。私たちの人生はどうだろうか。私たちの行くべき道が苦難と悩みに満ちた荒野の道であったとしても、キリストはその苦しみを十字架を背負い、私の行くべき道を示されるのである。私たちはこの「光の主の後に従って」いく者でありたい。