神の言葉の前で

芹野 創 牧師

何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。 (ヨハネの手紙一5章14節)

 

ヨハネの手紙はキリストが「神から遣わされた者」であり、キリストを通して新しい命が私たちの内に宿っていることを信じて生きるように勧めている(ヨハネ一5:12-13)。しかし同時に「この世全体は悪い者の支配下にあるのです」(5:19)とも語っている。聖書の語る「悪い者の支配」とは「神の言葉」をめぐる人間の態度を表現するものである。

 

エレミヤ書28章では預言者エレミヤと偽預言者ハナンヤとの対決が描かれている。ハナンヤは人々の願望を「神の言葉」として語った。具体的には「バビロン捕囚から解放」である。それは預言者エレミヤも願っていた出来事である(エレミヤ28:6)。しかし「神の言葉」は人間の「願望」を支えるために語られるのではない。注意すべきことは「希望」と「願望」は違うということである。「希望」は自分の弱さや傷、過ちを見つめる勇気を伴うが、「願望」は歴史を学ばず、過去を切り捨て、自分の願いを実現させたい欲望である。「神の言葉」は人の「希望」を支えつつ(ローマ5:5)、人の「願望」に対して厳しい視点を持っているのである。自分の願望のために「神の言葉」を用いる人間の態度が「悪い者の支配下にある」という世界を作り出していくのではないだろうか。

 

元オリンピック日本代表選手の為末大さんは、引退後、様々な方と「体育」について話す機会があったそうだ。「人生において、自分をどう扱うかと言う悩みが一番大きいのだろうと思っています。心と体との向き合い方を学ぶ場として、体育には大きな意義があります」。為末さんは「体育」を「自分の扱い方を学ぶ学問」と定義するようになったという。私たちは自分自身の「扱い方」をどれほどよく理解しているだろうか。

 

「悪い者の支配下にある」中でも、ヨハネの手紙は信仰を持つ者が「神に属する者」であることを告げる(ヨハネ一5:19)。本当に「神の言葉」を聞かねばならない時は「自分の願いが必ずしも神の御心ではない」ということを厳しく突きつけられる時である。そのような苦しみの中で、本日の詩篇の言葉に慰めを見出す。「あなたの恐るべき御業が、わたしたちへのふさわしい答えでありますように」(詩篇65:6)。人間の「願望」ではない「神の言葉」は、時に私たちに十字架という苦難と悲しみの道を示す。「神の言葉」は時として私たちを苦難の道へと導いていく。しかしそこで終わるのではない。ここに「神の恐るべき御業」がある。「神の言葉」は人間の「願望」を超えて復活の「希望」へつながっていく。