芹野 創 牧師
わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。(エフェソの信徒への手紙3章20〜21節)
聖書は人の内側に働く神の力が「キリストの愛である」と語っている。そのキリストの愛を表現する言葉がエフェソの信徒への手紙3章18節以下の言葉である。「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ」という表現は三次元的な広がりをイメージさせる。キリストの愛は、人生の出来事を多角的で様々な視点からその出来事を見つめ直す中で感じてゆくものであることが示されている。また「そしてついには満たされるように」(3:19)とあるように、キリストの愛は時間的な広がりを持っているのである。
旧約の聖書日課には歴代誌が与えられている。歴代誌には人の過ちや失敗の記事はほとんど記されておらず、神殿建築に関する功績が強調されている。しかし歴代誌の成立が亡国とバビロン捕囚後であることを考えると、歴代誌の編集者は「人間の美談や偉大な功績」が必ずしも希望の未来を紡ぎ出すものにはならないというメッセージを込めたと言えるかもしれない。本日の箇所はその中でも「主の顕現」を記している。ここには「ひざまずいて祈る人間の姿」、「祈りを聞かれる神の姿」が記されている。人が内側から変わるために、人は立ち止まり、立ち尽くし、膝をついて挫折するような経験がなければならない。そういう経験が「ひざまずいて祈る人間の姿」を生み出していくのである。しかし大切なことは、それが全て神の愛、キリストの愛の中で起こる出来事であるということを私たち自身が信じているかどうかということなのである。
辻山良雄さんが今村夏子さんの綴る小説について「人生の本流からは切り離された記憶を、読むものに強く呼び起こす」と語っている。辻山さんは「人生の本流」と「些細な記憶」という言葉を使って、次のように語っている。「些細な記憶の多くは、いまとなってはあまり重要ではなく、現実的には行き場のない光景ばかりだが、それを思い出したしばらくのあいだは、そのときと同じ不安や痛みで胸がいっぱいになる」。
「人生の本流」というメインストリートを進みゆく時、誰も立ち尽くし膝をついて挫折することは望まない。しかし「人生の本流から切り離されたようなところ」に神の愛がある。そしてそれに気が付くために、人は「時間的な広がり」を経験しなければならない。喜びの時には祝福を与え、悲しみと悩みの時には十字架を背負ってくださるキリストが、私たちの心の内に伴っていてくださることを信じ、内側から変えられて歩んでいきたい。