芹野 創 牧師
だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。 (コリントの信徒への手紙二5章 9節〜10節)
「地上の住みかである幕屋」とは私たちの体のことである。初代キリスト教会はローマ帝による迫害の恐怖や苦しみから逃れることを願い「天にある永遠の住みか」に希望を抱くようになっていった。私たちも現実があまりに苦しいとそこから逃れたい気持ちに襲われる。使徒パウロも同じである。「体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます」(コリント二5:8)。しかし私たちに示されることは、現実の苦しみに背を向けて逃げるか、現実の苦しみに耐えるかという二者択一ではない。「体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい」(コリント二5:9)。「主に喜ばれる者」は現実の苦しみと無関係ではいられないということを心に留めたい。
夏目漱石の代表的な小説の一つに『門』がある。人間の日常生活という現実に潜む「心の明暗」をよく描いているように思える。友人を裏切った過去から追いかけられるように禅寺の門をくぐる主人公は、最後まで破滅もせず明るくもならず、一点に留まっている状態である。「彼は門を通る人ではなかった。又門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下で立ち竦んで、日の暮れるのを待つ不幸な人であった」。
どことなく暗いイメージが残る小説である。しかし別の言い方をすれば「不自然な明るさ」がない。「明るいこと」が素晴らしいのではなく、人の持つ自然な姿を見つめるからこそ「性急な答え」ではないものが見えてくることがある。「現実の苦しみからの逃避」に襲われ、現実を受け止めることよりも「現実を劇的に変える方法」のような「魔法のような言葉」に引っ張られてしまうと、「等身大の自分」を見落としてしまうことも起こるだろう。私たちにとって人生の最も大切な分岐点はキリストとの出会いである。「主に喜ばれる者」とは現実の苦しみの意味をどのように捉え直すのかということにかかっているのである。
ダニエル書では「いのちの書」に記される名前があることを告げている(ダニエル12:1)。「いのちの書」に名前が記されているという出来事は、迫害の苦しみから逃れることを願い「天にある永遠の住みか」に希望を抱いていく初期キリスト者の姿にも重なる。しかし「現実の苦しみからの逃避」に襲われつつもキリストとの出会いを思い返したい。キリストとの出会いの中で、私たちは自分を見つめ直すからこそ、自分自身の苦しみの意味を他者の苦しみに深く共感する経験として捉え直し、他者のために祈るのである。