芹野 創 牧師
そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。(フィリピの信徒への手紙1章20節)
神はキリストを十字架の死から復活させられたのだから、私たちの様々な苦しみや悩み、課題も永遠にそのままにはされないという希望を、自分自身にもまた他者にも語る者でありたい。使徒パウロはまさにそういう人であった。十字架と復活の間には時間的な隔たりがあるように、私たちの苦しみや悩みがすぐに希望や喜びに変わることはない。しかし神の恵みは人の苦しみの中にも、喜びの中にも等しく働いているのである。パウロはその神の恵みを心に留める秘訣として「あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになる」(フィリピ1:19)と語った。
「このこと」とは「自分は苦しみの最中にいるが、その苦しみによって多くの人にキリストの福音が伝わっていること」であるが、大切なことはそれが「祈り」と「イエス・キリストの霊」に支えられていることである。復活のキリストが弟子たちに「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ20:21)と語ったように「イエス・キリストの霊」は私たちの「心の平安」の助けである。また私たちは、私たちの知らないところで私たちのために祈っていてくれる人たちに助けられて、苦しみの最中でも神の恵みを心に留め、希望に留まり続けるのである。
ヨブ記に記されるヨブの言葉から、私たちは自分の言葉と態度で神の恵みを台無しにしてしまうような存在であるということを教えられる(ヨブ42:1-3)。ヨブと友人たちは「神の計画」に関する論争が繰り広げるが、そこで浮き彫りにされているのが、私たち自身が「苦しみの当事者であるかどうか」である。苦しみの当事者として嘆き、不安、不平、訴えが尽きないからこそ、私のために祈ってくれている人たちの助けが必要なのである。
武蔵野美術大学出版局より『美術の教育 多様で寛容な「私」であるために』という本が出版されている。画家は絵を描く際、必要な色を必要な場所に置き、画面上の全てを管理しているわけではない。ある場所に置かれていた色が周辺にある色と響き合い、画家が予想もしなかった美しさが生まれることがあるという。著者はそうしたあり様を「積極的「人それぞれ」」と名付けている。人は全知全能ではない。私たちは「積極的「人それぞれ」」が生み出す予想外の反応に驚きつつ、それが神の恵みにつながっていくことを信じて、それぞれが思う「あの人」のために積極的に祈るのである。私たちが神の恵みに留まるために、私のために祈り苦しみを背負い、祈っていてくださる方こそキリストである。