芹野 創 牧師
まして、永遠の"霊"によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。 (ヘブライ人への手紙9章14節)
私たちと神との間には様々な隔たりがある。裕福過ぎて神を忘れることもあれば、貧困の内に神に絶望することもある。不安や苛立ち、困難な課題が大きくて神の恵みを求めることを諦めてしまうこともある。しかしそれらの隔たりが全て解決され取り除かれたという出来事が福音である。何によってか。キリストの十字架によってである。ヘブライ人への手紙もこの十字架の出来事を語っている。「キリストは、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。」(ヘブライ9:11,15)。キリストが私たちと神との間に立つ仲介者であるということが大切である。「キリストによって」という仲介のない、神と人間の直接交渉はキリスト教信仰という点でとても危ういのである。
士師記11章は士師エフタの物語である。エフタの一人娘が献げられるというショッキングな物語である。エフタは「平和的解決」の道が閉ざされた最終手段として、兵を集め戦争に備えたのである。平和的な解決ができない時、人はどうするのだろうか。エフタの言動はその事例的かもしれない。平和的な解決が行き詰まる中で、本当に命をかけてしまうことが起こるのである。それを「平和のための犠牲」と言ってはならないのである。
NHKの「鶴瓶の家族に乾杯」という番組は地元の方々を訪問し家族の様々なエピソードが繰り広げられる番組である。先日の放送の最初のインタビューは「親不知峠」に来た県外の中学校教師であった。話を聞くとこの秋に校内の合唱コンクールがあり、自分のクラスの生徒が合唱曲で「親不知峠」という曲を歌うのだという。この先生は自分の目で合唱曲の舞台である「親不知峠」を実際に見てみたいと思い、現地にやって来たという。生徒のために自らの時間を差し出す教師の姿が素晴らしいというわけではない。ただ、人は一体「誰」のためならば犠牲を払うことができるのかということを考えさせられる。
人は人格的なことや精神的なことなどは誰かに替わってもらうことはできない。しかし唯一キリストが代理人なのである。「平和のための犠牲」はキリストのみで十分である。だからこそ「キリストによって」という仲介者が大切なのである。ただキリストの十字架によってという信仰を抱き続けてたい。