希望にとらえられて

芹野 創牧師

 

わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。 (フィリピの信徒への手紙3章12節)

 

「自分がキリスト・イエスに捕らえられている」(フィリピ3:12)という言葉は、苦難の状況の中で生まれた使徒パウロの信仰的な言葉である。パウロは文字通り、獄中にいる「とらわれの身」であった。表面的にはローマ帝国という世の権力者に「とらえられている」ように見えるが、パウロは自身自身の体も心も、人生の全ての出来事を導き、とらえていてくださるのは神であるという信仰を抱き続けたのである。その信仰が「わたしたちの本国は天にあります」(フィリピ3:20)という言葉に表れている。

 

エレミヤ書29章は、表面的にはバビロニア帝国というこの世の支配に「とらわれている」人々に対して預言者エレミヤが書き送った手紙である。エレミヤが神から託された使命は「災い」から目をそらして楽観的な「希望」を語ることではなかった。私たちは「災い」に目を向けつつも、神が今日も「将来と希望を与える平和の計画」(エレミヤ29:11)を語っていることを忘れてはならない。私たちは「災い」ではなく「希望」にとらえられていたい。

 

『日本教育新聞』で「スクールソーシャルワーカー」の活動が紹介されている。「子どもたちは不登校である自分を否定的に捉え、「学校に行けない自分が情けない」と語ってくれた。学校に行かないことを自ら選択しながらも、どちらかというと後ろ向きな気持ちで日々を過ごしていることを知った。」

 

私たちは自らの人生の道を選びながらも、それが希望に満ちた主体的な選択であったとしても、苦しみや悩み、後ろ向きな気持ちにとらわれやすいのである。神の「希望」の計画を「災い」ではなくいつも「希望」として受け止めていくことは当たり前ではない。「キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」(フィリピ3:10-11)とあるように、私の人生の内にもキリストの十字架と復活が起こるのだという信仰を持って、「災い」に見える出来事の先に神の「希望の計画」を探し求めたい。「あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。」(エレミヤ29:12以下)。神の「希望の計画」は向こう側から自然に訪れるものではない。確かに神の側から一方的に訪れる恵みはある。しかしそこには必ず十字架が伴っているのである。本当の希望の言葉を求める者でありたい。