芹野 創 牧師
では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。(ローマの信徒への手紙3章27節)
本日のイザヤ書44章には偶像の詳細な製造過程が記されている(イザヤ44:12以下)。ここに記される「偶像の製造過程」は、人間の労力や人間の知識や技術の発展の「神格化」を象徴している。今日でも私たちの生活を多岐にわたって支えている、スマホやAIの急速な発展がまさに「神」のように機能していることも考えさせられる。「わたしをおいて神はない」(イザヤ44:6)との御言葉に立ち帰ることのできる者でありたい。
ローマの信徒への手紙は、自らの努力や労力の結果や社会が評価ばかりに振り回されない生き方があることを告げている。それはキリストの十字架の贖いを信じ、神と出会う生き方である。「人の誇りはどこにあるのか。人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです」(ローマ3:27以下)。
『どうせ死ぬなら絵を売ってから』という漫画がある。主人公はビルの清掃をしながら生活費を稼ぎつつ、絵を描くことを心の拠り所としていた。ある日ビルのオーナーが彼の絵を買いたいと申し出る。そこから次第に絵を通して自分が社会的に認められることの喜びを感じていくストーリーである。しかし漫画の根底には社会的格差などの権力構造に対する批判的な視点が流れていて、それが「窓」というモチーフを通して描かれるのである。実は主人公は児童養護施設で育ち、幼少期から施設の「窓」の向こうにある家族、お金、学歴などをを持つ人たちを「自分とは異なる立場の人間」だと捉えていたのである。
人は誰しも「窓」を持っている。それを閉じてしまえば、「誰かからこちらの世界を覗かれる」ことはないが、同時に「外の世界に目を向け他者とのつながっていく道」は失われる。人生の「窓」を開け放つのは勇気が必要だが、「窓」があるからこそ人は人生の盲目を回避することもできる。大切なのは「窓」を開け放った時に取るべき態度である。「誰かからこちらの世界を覗かれること」に気を取られるならば、人は自らの努力や労力、社会が評価ばかりに振り回されて生きることになるだろう。しかし「他者とつながる道がいつも開かれていること」に気づくなら、人の生き方はきっと変わってゆく。
詩篇は私たちの骨を砕く神の姿を歌う(詩篇51:10)。この「骨」は「自らの努力や社会の評価だけが大黒柱である」ことを象徴している。神はそれを砕き、キリストの十字架を人生の「骨」とし、「わたしをおいて神はない」という御言葉に立ち返るように招いている。