繰り返し味わう神の恵み

芹野 創 牧師

それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした。(ガラテヤの信徒への手紙3章14節)

 

アブラハムの人生の後半生は様々な困難に出会う旅であった。「信仰の父」と呼ばれるアブラハムの歩みは、困難も祝福も悲しみも喜びも、人生の中で形を変えながら繰り返し味わいつつ、しかしその度に「神が共に歩んでいてくださること」を繰り返し味わう歩みであった。そのことを想像させる言葉が13章3節以下に記されている。「ネゲブ地方から更に、ベテルに向かって旅を続け、ベテルとアイとの間の、以前に天幕を張った所まで来た。そこは、彼が最初に祭壇を築いて、主の御名を呼んだ場所であった」(創世記13:3-4)。以前とは異なる境遇の中でかつて神を礼拝した場所に戻ってきたのである。アブラハムは自分の人生を振り返り、過去の出来事とその時の記憶を脳裏に蘇らせながらこの場所に立っていたのではないだろうか。しかもその場所はかつて神を礼拝した場所である。

 

ガラテヤの信徒の手紙3章6節には「アブラハムは神を信じた」という短い言葉が記されている。しかし「神を信じる」という出来事はある日突然やって来るものではない。人生の喜びだけではなく、困難な出来事にも「神が共に歩んでいてくださる」という確信は、同じような経験を何度も積み重ね、時には過去の出来事を繰り返し振り返ることを迫られ、ゆっくりと時間をかけつつ抱いていくものなのである。そして「神が共に歩んでいてくださる」という確信を大きく支えてくれるものが、繰り返し行われる週ごとの礼拝である。

 

『シナリオ・センターが伝える14歳からの創作ノート』という本がある。この本では読み手の心に響く物語を書くポイントが順を追って示されていく。物語とは、主人公の変化、成長していく姿を描くものだという。精神科医R・D・レインが「アイデンティティとは、自分が自分に語って聞かせる物語である」と語ったように、私たちは自分で納得できる人生の物語を自ら組み立てるのである。しかし現実の人生は決して結末が容易に予想できるような物語ではないだろう。「私とは何者か」、「私にとって信仰とは何か」ということを考えてみた時に辿り着くのは、何の悩みもない人生などないということである。

 

申命記に「生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選びなさい」(申命記30:19参照)という言葉がある。命と祝福を選ぶことができず、死と呪いの道を選んでしまったと思う時でも尚、希望がある。それがキリストの十字架である(ガラテヤ3:13-14)。キリストの十字架の故に「神が共に歩んでいてくださる」との確信を繰り返し味わいたい。