芹野 創 牧師
こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために定めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。(使徒言行録3章20節)
預言者を与えられる神
旧約聖書の申命記は、イスラエルの⼈々がエジプトの奴隷⽣活から脱出した「救済の歴史」の回顧と、神から与えられた律法の解説、その律法に相応しい⽣活の勧めなどを中⼼とした書かれた書物となっています。申命記はその後に続くサムエル記や列王記、またエレミヤ書などの預⾔書の成⽴にも⼤きな影響を与えていると考えられています。申命記以後に書かれたこれらの⽂書は、申命記の影響を受けた「申命記学派」と呼ばれる⼈たちによって編集されました。その意味で申命記は旧約聖書の中で重要な書物と⾔うことができるでしょう。また新約聖書においても「⼼を尽くし、魂を尽くし、⼒を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記 6:5)や「⼈はパンだけで⽣きるのではない」(申命記 8:3)という申命記の⾔葉は、キリストが引⽤した⾔葉として記されています。
ではなぜ申命記という書物が書かれたのでしょうか。それは国を失った「バビロン捕囚」という出来事の中でユダヤの⺠のリーダーたちが、⾃分たちの歩んできた「歴史」を振り返り、今置かれている現実と状況を把握しようとしたからです。それは⾃分たちの現実と置かれた状況を「歴史」という⻑期的な視点から捉え直し、「このままいけばどうなってしまうのか」ということや「これから起こりうること」に対して誠実に向き合おうとしたということでもあります。このように「歴史」という観点から現状を分析しつつ、未来に向けて⼈々を導いていく霊的なリーダーが、いつの時代にも必要なのではないかと思います。「歴史」に誠実に向き合い、「歴史」を学び、「歴史」を紐解き、未来に向けて⼈々を導いていく霊的なリーダーとして、神はそれぞれの時代に預⾔者を与えられました。
"おぼろげ"にしか分からない「神の言葉」
預⾔者は神によって⼈間の中から選び出される存在です。聖書には預⾔者の果たすべき役割が明確に記されています。「彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう。ただし、その預⾔者がわたしの命じていないことを、勝⼿にわたしの名によって語り、あるいは、他の神々の名によって語るならば、その預⾔者は死なねばならない」(申命記 18:18,20)。預⾔者はその時代や状況の中で、世情に流されず⼈の⽿に⽢い⾔葉は語りません。時には⼈々から称賛を得ることがあったかもしれませんが、多くの場合は⼈々からの⾮難や反感を買いましたし、命の危機に直⾯するような攻撃の的になってしまうこともあるのです。「その預⾔者が主の御名によって語っても、そのことが起こらず、実現しなければ、それは主が語られたものではない」(申命記 18:22)とあるように、預⾔者の語る⾔葉の真実さはそれが実現することで初めて証明されるものでした。そのために、多くの⼈々にとって神の⾔葉の真意は「おぼろげにしか⾒えない」のです。⾃らが置かれている状況の中で神の⾔葉を真意をはっきりと明確に⾒定めていくことは、残念ながら難しいことなのです。しかしだからこそ私たちは置かれた現実の中で、より真剣に御⾔葉を求め、御⾔葉に⼼と⽿を傾ける者でなければなりません。
目と耳と頭、そして身体も・・・
『脳の外で考える 最新科学でわかった思考⼒を研ぎ澄ます技法』(ダイヤモンド社)という本があります。「体で思考する」、「環境で思考する」、「⼈と思考する」の 3 部構成ですが「脳の外で考える」というタイトルが印象的です。普段私たちは「脳の中で考える」と思っているのではないでしょうか。しかし脳は⾃分の体を動かしたり物理的な空間を活⽤し、仲間とうまくやり取りするように進化したというのです。したがって、⾃らの考えを可能な限り体で表現したり、環境という物理的な空間を変えたり、誰かと対話したりすると思考が深まっていくのだというのです。それは神の⾔葉の真意を求める姿勢にも関わっているように思います。もし神の⾔葉が私たちの全⽣活の中に息づいているとするなら、神の⾔葉を⽬と⽿と頭だけで受け⽌めようとすることは不⾃然なことなのかもしれません。⾝振り、⼿振りなど⾝体的な動きを伴いながら表現したり、対話をしたりすると思考がより深まるように、神の⾔葉もまた“時”と“場所”と“対話”の中でより深い意味を持つものになるのです。
「今の時」を告げる「神の言葉」
本⽇は新約聖書の⽇課として使徒⾔⾏録 3 章 11 節以下が与えられています。この箇所は使徒ペトロが⾜の不⾃由な男性を癒した後に語った「説教」となっています。ペトロは申命記の⾔葉を引⽤して次のように語りました。「モーセは⾔いました。『あなたがたの神である主は、あなたがたの同胞の中から、わたしのような預⾔者をあなたがたのために⽴てられる。彼が語りかけることには、何でも聞き従え。この預⾔者に⽿を傾けない者は皆、⺠の中から滅ぼし絶やされる。』預⾔者は皆、サムエルをはじめその後に預⾔した者も、今の時について告げています」(使徒⾔⾏録 3:22-24)。ペトロが語った「今の時」とは何でしょうか。それは語られる神の⾔葉を「おぼろげにしか捉えようとしない時」です。また「命の導き⼿である⽅を拒む時」(使徒⾔⾏録 3:15)であり、神から離れていく時だと⾔えるでしょう
預⾔者を通して語られる数々の⾔葉を遠いユダヤの歴史の話としてしか受け⽌めようとしないなら、神の⾔葉はいつまでたっても「おぼろげにしか⾒えない」のです。実に預⾔者を通して語られる数々の⾔葉は、私の⼈⽣に反省や時には針をさすような⾔葉にもなるのです。私たちは、聖書に記される⾔葉に出会う中で「命の導き⼿」を拒んで⾃⼰利益と欲望のままに⽣きてきたことや、「神が共にいる」という確信を抱いて未来を描くことができず、⾃分の描く未来はいつも恐れと不安で「おぼろげなもの」だったことをじっくり時間をかけつつ思い返す必要がります。⽬と⽿と頭だけではなく、⼿を動かし⽂字にしたり、散歩に出かけたり、環境を変え、対話を交え、五感を使って私たちは⾃分⾃⾝の「歴史」を振り返るのです。そして私たちは、預⾔者を通して語られる⾔葉が過去を振り返ることばかりではなく、現在から未来に向かって⼼新たに歩み出そうとする者への「励ましの⾔葉」でもあることに⽬を向けるのです。実に「⼀⼈⼀⼈を悪から離れさせ、祝福にあずからせるため」(使徒⾔⾏録 3:26)なのです。ここにキリストの背負われた⼗字架が⽰されています。
「命の導き手」であるキリスト
本⽇の交読詩篇は詩篇 77 編です。「⼤⽔はあなたを⾒た。あなたの道は海の中にあり、あなたの通られる道は⼤⽔の中にある」(詩篇 77:17,20)。ここでは出エジプト記の「葦の海の奇跡」を思い起こさせるような⾔葉が歌われています。詩篇は「神の道が海の中にある」と歌います。⼀体どうやって海の中にある道を進み⾏けばよいのでしょうか。私たちは神の⽰す海の中にある道を「おぼろげ」にしか捉えることができず、神の⽰す道を正しく歩み通すことが難しいのです。だからこそ出エジプトを導いたモーセのようなリーダー、導き⼿、預⾔者、霊的なリーダーが必要なのです。詩篇も「あなたはモーセとアロンの⼿をとおして、⽺の群れのように御⾃分の⺠を導かれました」(詩篇 77:21)と歌っています。多くの⼈々にとって神の⾔葉の真意が「おぼろげにしか⾒えない」からこそ「命の導き⼿」が必要なのです。その「命の導き⼿」こそキリストに他なりません。
「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた。神の⼿にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と」(イザヤ書 53:4)。私たちの⼈⽣の過去から現在に⾄る道の中にこのキリストがおられます。深い反省と時には針をさすような⾔葉をキリストは共に背負ってくださいます。そしてこれからも「命の導き⼿」として、未来に向かって歩み出す道の中にもキリストは伴ってくださるのです。お祈りをいたします
祈り
主なる神さま、この朝もあなたの御⾔葉を分かち合うことができましたことを感謝いたします。聖書の中には預⾔者を通して語られた数々の⾔葉が記されています。しかし私たちは神の⾔葉を「おぼろげ」にしか捉えることができません。預⾔者を通して語られる数々の⾔葉を、遠いユダヤの歴史の話としてしか受け⽌めようとしないなら、神の⾔葉はいつまでたっても「おぼろげにしか⾒えない」ことを分かち合いました。⽬と⽿と頭だけではなく、⼿を動かし⽂字にしたり、散歩に出かけたり、環境を変え、対話を交え、五感を使って私たちは⾃分⾃⾝の「歴史」を振り返ります。そして神の⾔葉が過去を振り返ることばかりではなく、現在から未来に向かって⼼新たに歩み出そうとする者への「励ましの⾔葉」でもあることに⽬を向けたいと願っています。この時、キリストが私たちの「命の導き⼿」として共に歩んでくださることを感謝いたします。⼗字架を背負って私たちと共に痛み、復活を通して私たちの背中を押してください。
新しい週もそれぞれの信仰と⽇々の⽣活、健康を守ってください。また様々な事情の中で礼拝を覚えつつも参加することができずに、祈りをもって過ごす⽅々がいます。それぞれにあなたの恵みを⼼に留め、感謝のうちに新しい週を歩むことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。