芹野 創 牧師
この方の口からは、鋭い剣が出ている。諸国の民をそれで打ち倒すのである。また、自ら鉄の杖で彼らを治める。そして、この方はぶどう酒の搾り桶を踏む。そのぶどう酒には、全能者である神の怒りが込められている。この方の衣と腿には、「王の王、主の主」という名が記されていた。(ヨハネの黙示録19章15〜16節)
"裁き"と"慰め"
預⾔者ミカは南北に分裂した"北イスラエル王国"と"南ユダ王国"の衰退と滅びを預⾔していました。この 2 つの王国は地政学的に⼤国に挟まれる位置にあったため、いつもエジプトやアッシリアといった⼤国の軍事的な脅威にさらされていました。⽬に⾒える極めて"具体的な軍事⼒"を前にしながらも、⽬に⾒えない神への信仰に⽀えられた"⼼の平安"をいかに保っていくのかが、いつも⼈々の課題であったと⾔えるでしょう。それは今⽇の私たちにも同じことです。ミカが預⾔者として活躍した時代には多くの"偽預⾔者"も存在していました。それは⼀⾒すると希望や平和を語る「神の⾔葉」が溢れかえっていたということでもあります。しかし全ての⼈が享受するこのできない平和、特定の⼈たち、権⼒を持つ⼈たちだけがより豊かになる平和という社会的な構造に多くの⼈々は疲弊していたのです。ミカ書 2 章 6 節以下には不平に満ちた社会の様⼦が語られています。「『たわごとを言うな』と言いながら彼らは自らたわごとを言う。昨日までわが民であった者が敵となって立ち上がる。平和な者から彼らは衣服をはぎ取る。戦いを避け、安らかに過ぎ行こうとする者から。彼らはわが民の女たちを楽しい家から追い出し、幼子たちから、わが誉れを永久に奪い去る。」(ミカ 2:6,8-9)。
"偽預⾔者"と呼ばれる⼈たちが語る「神の⾔葉」に争いながら、ミカは真の「神の⾔葉」を語り続けました。ミカの語る「神の⾔葉」は厳しく国の滅亡であり、神の裁きでした。しかし「神の⾔葉」は単なる制裁ではありません。「神の⾔葉」にはもう⼀つの側⾯があります。それは癒しと慰め、復興と希望です。「ヤコブよ、わたしはお前たちすべてを集め、イスラエルの残りの者を呼び寄せる。わたしは彼らを羊のように囲いの中に、群れのように、牧場に導いてひとつにする。」(ミカ 2:12)。
ミカは預⾔者として不平と混乱に満ちた現実を厳しく批判しました。しかし同時に時代の荒波にもまれ、傷つき、⽣きる⽀えや希望を失いかけた者たちや、頼る⼈も場所もなく⼼も⽣活も散り散りにされてしまった者たちを、⽺を集めるように集め⼀つとし新しい復興を告げる「神の⾔葉」を告げているのです。
"裁き"としての「神の言葉」
本⽇の新約聖書の⽇課にはヨハネの黙⽰録が与えられています。本⽇の箇所には"⽩⾺の騎⼿"の幻が語られています(ヨハネ黙⽰録 19:11 以下)。ヨハネ黙⽰録はこの騎⼿の様⼦を次のように記しています。「目は燃え盛る炎のようで、頭には多くの王冠があった。この方には、自分のほかはだれも知らない名が記されていた。また、血に染まった衣を身にまとっており、その名は『神の言葉』と呼ばれた。」(ヨハネ黙示録 19:12-13)。不平と混乱に満ちた現実の中で語られる「神の⾔葉」を体現するのは、"⾎に染まった⾐"だというのです。⾎の⾐は戦いによって傷つき、死をもイメージさせるものです。この⾎の⾐はキリストの⼗字架を象徴していると⾔えるでしょう。
また聖書⽇課に⽰されたもう⼀つの箇所はマタイ福⾳書 25 章 31 節以下ですが、その箇所では傷つき虐げられた者、最も⼩さい者こそ「神の⾔葉」を体現するキリストご⾃⾝であることが語られています。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ 25:40)。
ああ、私はここに存在していいんだ
さて「神の⾔葉」と⼈間の⾔葉は何が違うのでしょうか。「神の⾔葉」も⼈間の⼝を通して語られる以上、⼈間の⾔葉であることに違いありません。しかし「神の⾔葉」は、⽇常的なコミュニケーションツールとしての⾔葉とは区別しておかなければなりません。先⽇、著名な詩⼈であった⾕川俊太郎さんが亡くなりました(2024 年 11 ⽉ 13 ⽇逝去)。"⾔葉とは何か"ということを深く考えさせられる⾕川さんのお話しが思い出されます。
「ぼくは詩を書き始めたときに、どうも⾔葉ってのは信⽤できないなと思いました。⾃分が感じている現実の⼀パーセントも表現できていないんじゃないか、詩なんていったい世の中の何の役に⽴つんだろうか、と。そうやってずっと、詩に対して批判的な態度で書いてきたんです。ぼくがノンセンスを好きなのも、⾔葉でいかに触り⼼地が伝えられるか、ということを主にできるから。つまりは、存在させたいということなんです。『意味を伝える』ってことじゃない、『存在させたい』」。
⾔葉は意味を伝えることや⾃らの意志を表現すること以上の役割があるようです。『意味を伝える』ってことじゃない、『存在させたい』」という⾕川さんの表現が印象的です。多くの場合、私たちはその役割を意識していないかもしれません。しかし「神の⾔葉」の根底にあるものは"ああ、私はここに存在している/ああ、私はここに存在していていいんだ"という"触り⼼地"、"安⼼感"や"温かさ"なのです。
旧約聖書の出エジプト記の冒頭では、エジプトで奴隷⽣活をしていた⼈々を導き出すリーダーとして、モーセが選ばれる出来事が記されています。モーセは神がいつも共にいてくださることをなかなか受け⼊れられませんでした。不安の中でモーセは神に問います。「彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきしょうか。」すると神は答えました。「わたしはある。わたしはあるという者だ」(出エジプト 3:13-14)。神がモーセに告げたメッセージは"わたしは確かに存在している"というものでした。
十字架に前に立たされる私たち...「神の言葉」はどこに?
本⽇の交読詩篇には詩篇 50 編が与えられています。そこでは「神々の神、主は、御言葉を発し、日の出るところから日の入るところまで地を呼び集められる。御前を火が焼き尽くして行き、御もとには嵐が吹き荒れている。神は御自分の民を裁くために上から天に呼びかけ、また、地に呼びかけられる」(詩篇 50:1-4 参照)と歌われています。私たちは癒しや慰め、励ましの⾔葉こそ⼼に留めておきたいと願うものです。もちろん聖書の⾔葉に出会うきっかけは、そのような⾔葉かもしれません。先ほど「神の⾔葉」の根底にあるものは"ああ、私はここに存在している/ああ、私はここに存在していていいのだ"という"触り⼼地"、"安⼼感"や"温かさ"であることをお話ししました。しかしそれは"癒しや慰め、励ましの⾔葉しか語らない"という意味ではありません。むしろ詩篇が歌うように、また預⾔者たちが語り続けてきたように「神の⾔葉」は、時に厳しい裁きを語るのです。そしてその厳しい裁きがキリストの⼗字架という形で⽰されました。
⼈は⾃ら喜んで「神の⾔葉」の前に⽴つのではありません。ある者は命じられて、またあるいは兵役としてキリストの⼗字架の場⾯に居合わせました。「兵士たちは、シモンというキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた」(マタイ 27:32)。「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、『本当に、この人は神の子だった』と言った」(マタイ 27:54)。ある者たちは⼗字架の前に⽴つことを恐れて逃げ去りました。「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(マタイ 26:56)。またある者は遠くに⽴ち、またある者は⼗字架のもとに⽴ちつつ深い悲しみと嘆きを背負いました。「大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である」(マタイ 27:55)。キリストの⼗字架という出来事は、語られる「神の⾔葉」の中に込められた厳しい裁きの結果なのです。
さてもう一度、「神の言葉」はどこに?
つまり⾎に染まった⾐をまとうキリストの⼗字架が、「神の⾔葉」の厳しい裁きを体現する出来事だということです。それは私⾃⾝が背負うべき裁きをキリストが⼗字架で背負って下さったということです。この⼗字架の出来事の故に、私たちは「神の⾔葉」を"ああ、私はここに存在している/ああ、私はここに存在していていいのだ"という"安⼼感"や"温かさ"として受け⽌め、癒しと慰め、励ましとして受け⽌め、新しい希望の⾔葉として受け⽌めるのです。
⼈は、傷つき、⽣きる⽀えや希望を失いかけても、頼る⼈も場所もなく⼼も⽣活も散り散りにされても、⽺を集めるように⼀つにされる"教会"へ招かれています。そして再び⽴ち上がりそれぞれの⽣活の場所へと遣わされていくのです。「彼らの王が彼らに先立って進み、主がその先頭に立たれる」(ミカ 2:13)。この主こそ厳しい裁きを⼗字架で担い、復活を通して再び⽴ち上がる⼒を与えてくださるキリストなのです。「神の⾔葉」は⼗字架のもとにあります。しかし「神の⾔葉」はキリストの復活という新しい希望のもとで、"ああ、私はここに存在していていいのだ"という"安⼼感"や"温かさ"を与え、また癒しと慰め、励ましを与える⾔葉となるのです。お祈りいたします。
祈り
主なる神さま、この朝もあなたの御⾔葉を分かち合うことができましたことを感謝いたします。私たちは癒しや慰め、励ましの⾔葉こそ⼼に留めておきたいと願うことが多くあります。もちろん聖書の⾔葉に出会うきっかけは、そのような⾔葉かもしれません。しかし詩篇が歌うように、また預⾔者たちが語り続けてきたように「神の⾔葉」は、時に厳しい裁きを語ります。その厳しい裁きがキリストの⼗字架という形で⽰されましたことを改めて分かち合いました。キリストの⼗字架があり、そして復活が⽰されているからこそ、私たちは「神の⾔葉」の中に癒しと慰め、励まし、新しい希望を⾒い出します。キリストの⼗字架と復活に感謝いたします。
新しい週もそれぞれの信仰と⽇々の⽣活、健康を守ってください。また様々な事情の中で礼拝を覚えつつも参加することができずに、祈りをもって過ごす⽅々がいます。それぞれにあなたの恵みを⼼に留め、感謝のうちに新しい週を歩むことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。