光の中を歩もう

芹野 創 牧師

夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。(ローマの信徒への手紙13章12節)

 

"神の備え"に気づいていますか?

 

今年もアドベントを迎えました。週ごとにろうそくの⽕を灯し今年もイエス・キリストの降誕、クリスマスを待ち望みつつ過ごしていきたいと思います。第⼀アドベントの聖書⽇課として本⽇はイザヤ書2章1節以下が与えられています。

 

イザヤ書は"第⼀イザヤ"、"第⼆イザヤ"、"第三イザヤ"と呼ばれる⼈物が書き記した書物だと⾔われています。イザヤ書1章から39章までが"第⼀イザヤ"によるものであると⾔われています。この"第⼀イザヤ"が活躍した時代はエジプトとアッシリアという2つの⼤国の軍事的な対⽴と緊張が⼤きかった時代でした。南北に分裂していたイスラエルの王国はこの2つの⼤国に挟まれる形で、戦争の成り⾏きに振り回され、希望の⾒出せない時代を過ごしていました。そのような状況の中でイザヤ書2章4節以下の⾔葉が語られたのです。「多くの民が来て言う。『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう』と。主の教えはシオンから御言葉はエルサレムから出る。主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」(イザヤ2:3-5)。

 

ここで語られる「主の⼭」は⽂字通りエルサレム神殿を指す⾔葉です。しかし私たちはエルサレム神殿という具体的な場所ではなく、"神が臨在する空間"、"神が共にいる空間"として理解すべきでしょう。「主の⼭」という⾔葉から、私たちはアブラハムが息⼦イサクを捧げる物語を思い返します。「わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい」(創世記22:2)という神の命令に従い、アブラハムは独り息⼦イサクを捧げようとしました。しかしアブラハムの信仰を⾒た神はイサクの代わりに⼀匹の雄⽺を備えられ、アブラハムはイサクの代わりにその雄⽺を献げたのです。この出来事を通して創世記は「アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも『主の山に、備えあり(イエラエ)』と言っている」(創世記22:14)と記しています。私たちはこのアブラハムの物語からとても⼤切なことを教えられます。それは"神の備えがそこにあったとしても、私たちが神の備えを⾒出すのは神に真剣に向き合った時だけである"ということです。神は私たちの⼈⽣に様々な出来事を備えておられます。しかし⼈⽣を⽀え導いていく神の備えを⾒出すのは、私たちが真剣に神に向き合う時だけなのです。私たちが神の備えを⾒出すのは、希望の⾒出しにくい状況の中でも「主の光の中を歩もう」という呼びかけに応えようとする時なのです。

 

人間の行いは"闇"に結びつきやすい

 

新約聖書の⽇課としてローマの信徒への⼿紙が与えられています。そこでは「夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう」(ローマ13:12)と語られています。冬⾄を境⽬にして徐々に⽇中の時間が⻑くなるクリスマスの季節が象徴しているのは、"夜の⽀配・暗闇の⽀配"から"光の⽀配"へ変わっていく⼤きな転換なのです。ここで"闇"は"⾏い"に結びついているのに対して"光"は"武具"として記されていることに注⽬しなければなりません。実に⼈間の⾏いは"闇"に結びつきやすいのです。暗闇の中を⼩さな光を灯して何とか歩もうというのではありません。光に包まれ光の中を歩むために、私たちは暗闇を象徴する様々な事柄と⽂字通り"戦わなければならない"のです。そのためには"光の武具"が必要なのです。

 

本⽇の交読詩篇でも戦う神の姿が歌われています。「栄光に輝く王とは誰か。強く雄々しい主、雄々しく戦われる主」(詩篇24:8)。それは何との戦いでしょうか。それは闇との戦いなのです。私たちには、光の中を歩むために、⼼の平安を保ち希望に⽣きるための戦いが必要なのです。そしてキリストこそ、私たちを苦しめ悩ます暗闇に打ち勝つ唯⼀の武具であることを⼼に留めたいと思います。

 

What Would Jesus Do?もしイエスだったらどうするだろう?

 

私たちはキリストという"光の武具"をどのように⾝につけることができるでしょうか。そのヒントになるようなフレーズがあります。それは"WWJD?"です。英語の"What Would Jesus Do?"の頭⽂字をとった⾔葉で"キリストだったらどうするだろうか?"という意味になります。2つ⽬の"W"は"Would"ですが、これは英⽂法の仮定法です。つまり実際には起こっていない仮の話をする時に⽤いる表現だということです。実際には起こっていないにもかかわらず、仮の話を想定することができるのは、⼈間に与えられた恵みの⼀つでしょう。暗闇を象徴する様々な事柄に流され、引っ張られそうな時に、"What Would Jesus Do?" という仮の話を思い描くことが、私の⾝を守り、⼈⽣を新しい⽅向へと導いていく"光の武具"を⾝に着けることになるのではないでしょうか。

 

外にはまだ正しい世界がある

 

第⼆次世界⼤戦中にアウシュヴィッツに強制収容され、⽣き延びたユダヤ系イタリア⼈の⼿記が本として出版されています。『完全改訂版アウシュヴィッツは終わらないこれが⼈間か』(朝⽇新聞出版)と題され2017年に改訂完全版が出版さています。収容所に到着した時、喉の渇きに耐えられず窓の外のつららを取ろうとした著者は、警備巡回中の男に奪い取られます。「なぜだ?」と問う著者に対して「ここには"なぜ"なんて⾔葉はない」という⾔葉が放たれます。⼈々は"分かろうとしない"、"未来のことを考えない"、"質問をしない、されない"ことを⽣き残る知恵として⾝に付けていったといいます。しかし著者はある仲間の存在のおかげで"⼈間である"ことを忘れませんでした。その仲間が"外にはまだ正しい世界がある"と思い出させてくれたのです。飢えと寒さと労働は、⼈々から物事を思考する⼒を奪いました。しかしそのような中で"外にはまだ正しい世界がある"という希望に留まり、実際にはまだ実現していない出来事を思い描く⼒がある限り、⼈は"⼈間"であり続けるのです。

 

私たちの盾となる十字架

 

私たちは⾃らの⾏いが往々にして"闇"に結びつきやすいということを忘れてはなりません。そのことを知っているからこそ私たちは"What Would Jesus Do?"という仮の話を思い描き、⽴ち⽌まることができるのです。この⽴ち⽌まりが"光の武具"としてのキリストを⾝にまとうことなのです。

 

光の中を歩んでいくために、⼼の平安と希望を持って⽣きていくために、私たちはいつも"闇"と戦わなければなりません。しかしそれはキリストと共に戦う戦いです。キリストは私たちの"光の武具"として、私たちを守り、あらゆる事柄の盾となってくださいます。ここに"私たちのための⼗字架"があります。キリストの⼗字架が私たちの⼈⽣の盾となり、"闇"に結びつき、苦しみや悩みに打ちのめされ流されていく私たちを守ってくださいます。キリストが"光の武具"という盾となってくださるからこそ、私たちは光の中を歩んでいくのです。

 

祈り

 

主なる神さま、この朝もあなたの御⾔葉を分かち合うことができましたことを感謝いたします。アドベントを迎え最初のろうそくが灯されました。あなたは私たちの⼈⽣に様々な出来事を備えておられます。しかし私たちがあなたの備えを⾒出すのは、希望の⾒出しにくい状況の中でも「主の光の中を歩もう」という呼びかけに応えようとする時であることを知らされました。私たちは暗闇を象徴する様々な事柄と戦いつつ、光の中を歩んでいきたいと願ってます。この時、キリストが⼗字架を背負い、"闇"と戦う私たちの"光の武具"として共に歩んでくださることを感謝いたします。

 

新しい週もそれぞれの信仰と⽇々の⽣活、健康を守ってください。また様々な事情の中で礼拝を覚えつつも参加することができずに、祈りをもって過ごす⽅々がいます。それぞれにあなたの恵みを⼼に留め、感謝のうちに新しい週を歩むことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。