謙虚でありたい

芹野 創 牧師

神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。(ローマの信徒への手紙16章25節)

 

"謙虚さ"をもっていたい

 

アドベントの2週⽬を迎えました。本⽇はイザヤ書59章12節以下が聖書⽇課として与えられています。イザヤ書59章は神を礼拝することを妨げている具体的な事柄がいくつか語られています。その⼟台となっているのが"⼈間の悪"だというのです。

 

イザヤ書59章の(イザヤ59:2)、「むなしいことを冒頭部分では「お前たちの悪が神とお前たちの間を隔て」頼みとし、偽って語り、労苦をはらみ、災いを産む」(イザヤ59:4)、「足は悪に走り、罪のない者の血を流そうと急ぐ」(イザヤ59:7)、「光を望んだが、見よ、闇に閉ざされ、輝きを望んだが、暗黒の中を歩いている」(イザヤ59:9)と語られています。⼈は"神などいない"と考えるようになり、その⼿で他⼈の⾎を流し、⾆で不正を語るようになります。聖書はそのような⼈間の姿を"罪"と呼んでいます。その"罪"の結果として、たとえ光を望んだとしても闇しか訪れず絶望のうめき声を上げるようになるというのです。イザヤ書59章の冒頭に記される「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのではない」(イザヤ59:1)という⾔葉は、不平や不満、困難な状況に打ちひしがれてしまう私たちが深く受け⽌めるべき⾔葉です。

 

第三イザヤと呼ばれたこの預⾔者は、このような悲惨な状態を⾃分⾃⾝のことして受け⽌めています。そして謙虚に「御前に、わたしたちの背きの罪は重い」(イザヤ59:12)と告「『あなたの神である主⽩しています。私たちもそういう謙虚さを持っていたいと思います。を愛しなさい。』、『隣人を自分のように愛しなさい。』」(マタイ23:37-39)というキリストの⾔葉に⽰されるように、神を礼拝することを通して私たちは、いつも神と隣⼈への愛をもって⽣きる⼈となるようにと招かれています。しかしそれはよく意識していなければなりません。いつも"謙虚さ"を持って⽣きるのは、本当に難しいことなのだと思います。

 

私たちは案外"従順"なのです

 

新約聖書の⽇課としてローマの信徒への⼿紙の⼀番最後の部分が与えられています。こ「この福音の⼿紙を記した使徒パウロはこの⼿紙を書き送った意図について記しています。は、(中略)信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました」(ローマ16:25-26)。この「信仰による従順」という出来事が信仰を持つ者にとっての⼤きな課題です。⼈間にとって本当に難しいのは、実は"従順さ"ではありません。私たちは本当に多くの場⾯で従順なのです。私たちは⾃分⾃⾝の価値観に対して従順です。また⾃分の利益を追求することに対して従順です。誰かの⾔動に対して"当然こうすべきだ"という⾃分なりのルールに対して従順です。こうした⾃分⾃⾝に対する"従順さ"によって、私たちは"謙虚さ"からどんどん遠ざかってしまうことにもなかなか気づきません。

 

私たちにとって本当に難しいことは"従順な⽣き⽅"ではなく、"信仰によって従順に⽣きる"ということなのです。本⽇のイザヤ書の箇所では「主は人ひとりいないのを見、執り成す人がいないのを驚かれた」(イザヤ59:16)という⾔葉が記されています。⾃分⾃⾝に対する"従順さ"ではなく、隣⼈の存在をいつも⼼にかけて⽣きるということは、容易なことではありません。私たち⾃⾝を贖ってくださる⼗字架のキリストを知っていても、私たちは完全には従いきれない存在なのです。

 

あなたは自分に"正直"ですか?それとも"従順"ですか?

 

フランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユの著書た翻訳書を多数⼿がけている今村純⼦さんが、作家の辻井喬さんとの対談の中でシモーヌ・ヴェイユの著書『根をもつこと』に触れて、次のように語っておられます。2010年当時のインタビュー記事です。

 

私はいま美術⼤学で美術を学ぶ学⽣たちに哲学や倫理学を教えているのですが、たとえば彼らは「絵ばっかり描いていて果たしていいんだろうか?」と思ったりするわけです。でも、その⼈が本気でそのことをやっていたら、その存在だけで、その作品の強さだけで、他者の⼼を震わせることができたとしたら、それはものすごいことで、その作品に接した⼈の⽣が動き出すんだったら、ただただ「絵を描く」というその⾏為だけで、他者と⼿と⼿をつないでゆける。つまり、他者と⼿をつなぎたかったら、そうしたら、ひたすら⾃分というものを掘っていけばいい。そのことをヴェイユは"根をもつこと"と⾔ったのだと思います。

 

"その作品の強さだけで、他者の⼼を震わせることができたとしたら"という視点は2010年当時ならまだ実感のある⾔葉だったかもしれません。しかし2024 年現在、AI技術の急速な発展によって"絵を描く"という⾏為そのものが⼈間にとって代わることが起こっています。しかしだからこそ私たちは"描き⼿が誰か?"という視点を失ってはならないのだと思います。なぜなら"他者と⼿をつなぎたかったら、そうしたら、ひたすら⾃分というものを掘っていけばいい"という意志は、⼈間であるが故に抱くことができる意志だからです。⼤切なのは"他者と⼿をつなぎたかったら"という前提です。

 

"⾃分の気持ちに正直であること"と"⾃分の気持ちに従順であること"は違うのです。前者は他者との関わりや置かれた⽣活環境の中で"あなたは⼀体どうしたいのか?"という決断を迫られることですが、後者は他者との関わりについてほとんど考慮することなく、また置かれた環境の中で"⾃分の損得"を基準にして⽣きることではないでしょうか。そしておそらくこの区別がきちんとつくかどうかが、私たちの求めるべき"謙虚さ"の分岐点にもなるでしょう。その判断は⼈間にしかできない判断だと思います。

 

"自分が思っている自分"、"他人から見えている自分"

 

本⽇はもう⼀つの聖書⽇課としてマタイ福⾳書13章53節以下が与えられています。そ「人々は驚こではイエスをキリストとして受け⼊れていくことの難しさが記されています。いて言った。『この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。』このように、人々はイエスにつまずいた」(マタイ13:54-57)。⼈々はキリストの⾔動にも、キリストの出⾃にもつまずいたというのです。偏⾒が⼈の⼼も⽬も曇らせてしまいます。しかし残念ながら"偏⾒"は⼈の常でしょう。私たちから完全に"偏⾒"をなくすことは難しいのです。また私たちは⾃分⾃⾝のことですら偏って理解していることもあります。"⾃分が思っている⾃分の姿"と"他⼈から⾒えている⾃分の姿"は往々にして違うものです。それは親⼦でも家族の間でも同じです。しかし"偏⾒"が⼈の常であり、私たちから完全に"偏⾒"をなくすことは難しいということを⼼に留め、そのことを意識して思い返すことが、私たちを"謙虚な⽣き⽅"へと引き戻してくれるのではないでしょうか。

 

この人を見よ

 

本⽇の交読詩篇は詩篇96編です。詩篇は「主は来られる、地を裁くために来られる。主は世界を正しく裁き、真実をもって諸国の民を裁かれる」(詩篇 96:13)と歌っています。

 

正義と真実をもって裁くために最も遠ざけなければならないもの、取り除かなければならないものこそ"偏⾒"であり"無理解"なのです。キリストは"偏⾒"の⽬で⾒られる⽴場に⽴ち、"偏⾒"の⽬で⾒られる出⾃を背負われました。キリストは⼈々の"無理解"をその⾝に引き受けられました。「この⼈を⾒よ、この⼈にぞ、こよなき愛はあらわれたる、この⼈を⾒よ、この⼈こそ、⼈となりたる活ける神なれ」(讃美歌21-280「この⼈を⾒よ」)。クリスマスはこのキリストを改めて迎え⼊れる時です。「信仰による従順」(ローマ16:26)を抱き、"謙虚でありたい"と願いつつアドベントの時を過ごしていきましょう。

 

祈り

 

主なる神さま、この朝もあなたの御⾔葉を分かち合うことができましたことを感謝いたします。アドベント2週⽬を迎え、ろうそくに2本⽬の⽕が灯りました。私たちは悲惨な現実を前にした時に「御前に、わたしたちの背きの罪は重い」(イザヤ59:12)という謙虚な告⽩を忘れてしまうことが多くあります。いつも神と隣⼈への愛をもって⽣きる⼈となるようにと招かれていても、なかなかそのように⽣きることができません。いつの間にか⾃分の都合や利益に従順になってしまいます。⾃分の都合や利益ではなく信仰によって従順に⽣きる者とさせてください。そしてキリストを⾒上げ、「謙虚でありたい」という思いを今⼀度私たちに与えてください。

 

新しい週もそれぞれの信仰と⽇々の⽣活、健康を守ってください。また様々な事情の中で礼拝を覚えつつも参加することができずに、祈りをもって過ごす⽅々がいます。それぞれにあなたの恵みを⼼に留め、感謝のうちに新しい週を歩むことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。