神への信頼を抱いて

芹野創牧師

わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。(フィリピの信徒への手紙4章9節)

 

福音の"先駆者"に求められること

 

アドベント 3 週⽬を迎えました。本⽇の礼拝の主題は"先駆者"というテーマが与えられています。⻑期化する戦争や様々な災害など混迷する時代の中で、聖書はその時代に必要な福⾳の"先駆者"が与えられることを告げています。私たちは混迷するこの時代における"先駆者"という存在について改めて問われています。

 

かつてイスラエルには⼠師と呼ばれた⼈たちが活躍した時代がありました。⼠師は平時は⺠衆のリーダーであり、戦時には軍⼈として指揮するようなカリスマ的なリーダーでした。その⼠師として活躍したサムソンの誕⽣の経緯は、キリストの受胎告知の物語によく似「不ています。サムソンの⺟親は"マノアという男の妻"として紹介されています。この⼥性は妊の女で、子を産んだことがない」(士師記 13:3)と記されています。しかしそこに主の御使いが現れて「あなたは身ごもって男の子を産む。彼は、ペリシテ人の手からイスラエルを解き放つ救いの先駆者となる」(士師記 13:5)と告げられました。その出来事を夫であるマノアは妻から聞かされましたが、すぐには信じられず再び主の御使いが現れることを願います。しかしその後、再びマノアの妻のところに御使いは現れました。ここには名前が記されている夫と無名の妻がいます。しかし主の御使いが遣わされたのはいつも無名の妻のと「夫マノアは一緒にいなかった」(士師記 13:9)といころでした。再び御使いが現れた時、うのです。信じる者の前にしか姿を現さない主の御使いが描かれているようです。

 

サムソンの誕⽣物語では最後まで⺟親の名前は記されていません。それがキリストの誕⽣物語と⼤きく異なる点です。本⽇の箇所の後でマノアはサムソンの誕⽣を告げた御使いに「お名前は何とおっしゃいますか。お言葉のとおりになりましたなた、あなたをおもてなししたいのです」(士師記 13:17)と聞いていますが、御使いは「なぜわたしの名を尋ねるのか。それは不思議と言う」(士師記 13:18)と答えます。名前よりも重要なことがあるということです。それは"神への信頼"です。キリストの⺟マリアも天使の⾔葉を聞いて「お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ 1:38)と告⽩しました。サムソンの誕⽣物語とキリストの誕⽣物語の共通点は、⺟親が抱いた"神への信頼"です。"神への信頼"は聖書が告げる福⾳の"先駆者"の最も⼤切な条件でもあります。

 

"祈る"こと、"願う"こと

 

本⽇の新約聖書の⽇課にはフィリピの信徒への⼿紙が与えられています。聖書は「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」(フィリピ 4:6)と教えています。聖書には「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(テサロニケ一 5:16-18)という⾔葉もありますが、この箇所では「祈り」と「願い」をはっきり区別をしています。祈りは願望を神にぶつけることではありません。また聖書は別の箇所で神について「わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできな⽇本基督教団杉並教会1降誕前第 2 主⽇礼拝2024 年 12 ⽉ 15 ⽇る方」(エフェソ 3:20)と記しています。神は私たちが思う以上のことをなされるというのです。信仰にはこの「はるかに超えて」という出来事が⼤切です。なぜならそれは私たちがすることではなく、神のなさることへの信頼だからです。しかし"神への信頼"は突然始まるわけではありません。そこには"信頼の種"が必要です。私たちは神に対する"信頼の種"を探し、拾い集める者でありたいと思います。

 

"神への信頼の種"を探して

 

フランスの作家ジャン・ジオノの作品に『⽊を植えた男』という短編⼩説があります。1987 年にはこの作品を原作としたアニメが制作され、絵本にもなっています。物語は主⼈公である"私"が⼈知れず荒野で植樹を続ける寡黙な男と出会い、その男の活動によって森が再⽣していく様⼦を回想していく形で展開していきます。作品の中で"第⼀次世界⼤戦"や"第⼆次世界⼤戦"といった歴史的な事実や具体的な地名が登場することがあってか、多くの⼈がこの物語が史実に基づく作品であると思い込んでいたといいます。しかしこの物語は史実ではなく、登場⼈物も架空の存在であることが作者ジャン・ジオノによって明かされています。私たちは⼀体なぜ、⼈の⽬に留まることなく続けられる⼩さな種まきの物語に⼼を惹かれるのでしょうか。

 

『⽊を植えた男』の物語が歴史的な事実であってほしいと考える⼈は決して少なくありませんでした。むしろ多くの⼈がこの物語に⼼を惹かれたのです。私たちが⼈の⽬に留まることない⼩さな種まきの物語に⼼を惹かれるのは、⾃分の存在価値というものがいつも成果や結果によってを測られるような世界に疲弊しているからではないでしょうか。また⼆つの世界⼤戦という歴史的な事実が織り込まれていることも関係していると⾔えるでしょう。今も"戦争"が私たちの世界を覆っています。私たちがこの物語に⼼を惹かれるのは"戦争"のような⾮常時でも、あるいは平時でもどう⽣きていけばいいのか分からなくなってしまう時に、周囲の⼈が何を⾔おうとも黙々と⽊を植え続ける男の⽣き⽅に感銘を与えられるからだと思います。

 

私たちは⾃分の⾏いや、⾃分が成し遂げた成果こそが"信頼の種"になる世界に⽣きています。結果が出なければ、成果が上がらなければ⼈はなかなか評価をしてくれません。⾃分が成し遂げた成果が"信頼の種"になるのです。しかしそのような世界の中で私たちが⼀⽣懸命に探しているのは"神への信頼の種"なのです。それはどのようにして⾒出すのでしょうか。もし本当に"神への信頼の種"を探し、⼈⽣の宝としてそれを拾い集めようとするならば、たとえ願った形での結果にならなくても、たとえ⽬に⾒える成果がなくても、たとえ誰の⽬にも留まらなくても、それでも神に願いを打ち明けることを諦めてはなりません。周囲の⼈が何を⾔おうとも黙々と⽊を植え続ける男のように、また「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」と教えられているように、求めているものを神に打ち明けることを諦めてはなりません。なぜなら、そこにこそ"神への信頼の種"があるからです。

 

"神への信頼"を抱く先駆けとして

 

もう⼀つの新約聖書の⽇課にはマタイ福⾳書 11 章 2 節以下が与えられています。そこで「『見よ、わたしはあなたよりはキリストが洗礼者ヨハネについて次のように語っています。先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ。」(マタイ 11:10)。洗礼者ヨハネも⼠師サムソンもそれぞれの活躍した時代において"神への信頼"を抱き、キリストの先駆けとなった⼈たちでした。私たちもまた"神への信頼"を抱き、キリストを迎える先駆けとなってこのアドベントの時を過ごしているのです。"先駆者"は"神への信頼の種"を探し、たとえ願った形での結果にならなくても、たとえ⽬に⾒える成果がなくても、たとえ誰の⽬にも留まらなくても、それでも神に願いを打ち明けることを諦め「あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(ルカず、2:11)という⾔葉を待ち望むのです。(詩篇本⽇の交読詩篇は詩篇 113 編です。詩篇は「主は低く下って天と地を御覧になる」113:6)と歌っています。これこそキリスト降誕の出来事です。そしてさらに続けて「弱い者を塵の中から起こし、乏しい者を芥の中から高く上げる」(詩篇 113:7)と歌っています。今の時代の福⾳の"先駆者"としてこの神の業を覚えたいと思います。"神への信頼"を抱いてアドベントの最後の⼀週を過ごしてまいりましょう。

 

祈り

 

主なる神さま、この朝もあなたの御⾔葉を分かち合うことができましたことを感謝いたします。アドベント 3 週⽬を迎えました。混迷する時代の中で、聖書はその時代に必要な福⾳の"先駆者"が与えられることを告げています。福⾳の先駆者は神への信頼の種を探し、たとえ願った形での結果にならなくても、たとえ⽬に⾒える成果がなくても、たとえ誰の⽬にも留まらなくても、それでも神に願いを打ち明けることを諦めない者であることが知らされました。それはキリストが私たちのところに来てくださり、苦難の⼗字架を背負って共に歩んでくださること信頼するからです。私たちもこの神への信頼を抱き、キリストを迎える福⾳の先駆けとなってアドベントの時を過ごしていけますように助けてください。

 

新しい週もそれぞれの信仰と⽇々の⽣活、健康を守ってください。また様々な事情の中で礼拝を覚えつつも参加することができずに、祈りをもって過ごす⽅々がいます。それぞれにあなたの恵みを⼼に留め、感謝のうちに新しい週を歩むことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。