芹野 創 牧師
それゆえ、わたしの主が御自ら あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ。(イザヤ書7章14節)
私たちに告げ知らされているもの
アドベント4週⽬を迎えました。今年は本⽇の礼拝がクリスマス礼拝となります。クリスマスおめでとうございます。聖書⽇課に基づく本⽇の礼拝の主題は"告知"というテーマが与えられています。私たちには⼀体何が告げ知らされているのでしょうか。クリスマスを迎えるこの時、その"告知"とは当然、イエス・キリストの誕⽣ですが、本⽇与えられている4つの聖書箇所(イザヤ書7章10節以下、マタイ福⾳書1章18節以下、ヨハネ黙⽰録11章19節以下、詩篇46編)から共通して浮かび上がるテーマは"恐れ"なのです。"告知"とは「あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(ルカ福音書2:11)というキリスト誕⽣の知らせですが、少し違う表現を使うのであればそれは"恐れることはない"というメッセージの"告知"なのです。
あなたは"何"を恐れていますか?
キリスト誕⽣の経緯を記すマタイ福⾳書の冒頭では、マリアとの結婚をめぐる出来事が「母マリアはヨセフと婚約夢に出てくるほど悩み、苦しんだヨセフの姿が描かれています。していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」(マタイ1:18-19)。キリスト誕⽣をめぐる出来事について、ルカ福⾳書はマリアの視線でその出来事を語っていますが、マタイ福⾳書はヨセフの視線で語っています。マタイ福⾳書の記すクリスマス物語では、よくわからないまま婚約相⼿のマリアが⼦ども宿した出来事から始まります。ヨセフにとっては受け⼊れ難く、信じられないことば(マタイかりです。主の天使はそんなヨセフに対して「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」福音書1:20)と告げました。
主の天使がヨセフに告げた「恐れずに」という⾔葉の中⾝は⼀体何でしょうか。ヨセフは⼀体何を恐れていたのでしょうか。それは"ヨセフ⾃⾝が現実を受け⼊れる"というです。主の天使がヨセフに告げたことは"あなたはマリアを信じ、マリアを受け⼊れることを恐れている"ということでした。ヨセフの抱いていたこの恐れはマリアとその⼦どもを受け⼊れ、愛していくことができるのかという不安です。ヨセフの抱いた恐れはマリアを疑い、マリアを信じることができず、結婚の約束を破棄しようとまで思い悩み、⾃分の将来に絶望し、⾃分⾃⾝を受け⼊れることができない悲しみでした。ヨセフの抱いた恐れとは将来に対する強い不安なのです。聖書はこのような⼈間の抱く葛藤を否定しません。むしろ聖書は"あなたは今、恐れている"、"あなたは今、葛藤している"、"あなたは今、不安になっている"というメッセージを⽰しながらそれでも「恐れることはない」と語るのです。
"見つけてしまった"本当のわたし
旧約聖書の⽇課にはイザヤ書7章が与えられています。「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」(イザヤ書7:14)という⾔葉はマタイ福⾳書でも引⽤されている⾔葉です。イザヤ書ではこの⾔葉は南ユダ王国の王アハズに対して告げられた⾔葉となっています。当時イスラエルの国は北イスラエルと南ユダに分裂していました。さらにイスラエル周辺は列強と⾔われる国が取り巻いていました。イザヤ書7章では北イスラエル王国がアラムという外国と同盟を結び、同胞であるはずの南ユダ王国に攻め⼊ろうとする事態が描かれています。この情報を聞いた南ユダ王国のアハズ王も国⺠も動揺しました。イザヤ書はその様⼦を「王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した」(イザヤ書7:2)と記しています。その後預⾔者イザヤに神の⾔葉が告げられ、イザヤはアハズ王に「恐れることはない」(イザヤ書7:4)と伝えたのです。
ここには⼈間の⽬から判断する限り明らかな悪条件と、これから起こりうるであろう事態への強い不安があります。それは状況は違いますがヨセフの抱いた不安や恐れとよく似ています。アハズ王やヨセフだけではありません。キリストに先⽴って現れた洗礼者ヨハネの⽗であるザカリアもマリアも不安を抱きました。確かに置かれた状況が悪かったとも⾔えますが、しかし彼らは皆いつも不安と恐れや疑いをもって⽣きている⾃分を"⾒つけてしまった"のです。それは私たちにも同じことが当てはまります。普段は⾒ないようにしてきた⾃分⾃⾝の姿や⾃分の中に渦まく様々な感情が噴き出してしまうとき、私たちはどう対処したらよいでしょうか。あまりそういうことは考えたくありません。本来ならば⼀番避けたいことではないでしょうか。
その書き込み、大丈夫ですか?
⽂部科学省が2021年3⽉に開設したX(旧Twitter)の"#教師のバトンプロジェクト"というアカウントがあるそうです。学校の⽇常や教員へのエールなどを"#教師のバトン"をつけてSNSで⾃由に投稿・シェアしてもらい、全国の教員や教職志望者に届ける試みとして始まったものです。しかし実際の投稿には労働環境や教育⾏政への批判が集まったと⾔います。どんなことを投稿するかは個⼈の⾃由ではありますが、過激な⾔葉使いや誹謗中傷が許されるわけではありません。実際に教員による誹謗中傷が明らかになったケースもあります。⽣徒も教員も保護者もSNSとは切っても切れない世界に⽣きています。そのような中で"その投稿は⼦どもたちに⾒せられるか"という警鐘を鳴らす⽅もいます。匿名だから⾔えることや匿名だから書けることがあるということを鋭く指摘しています。SNSが⼈間の抱く様々な感情の吐⼝になってしまうこともあるのです。普段は⾒ないようにしてきた⾃分⾃⾝の姿や⾃分の中に渦まく様々な感情が噴き出してしまうとき、私たちはどう対処したらよいでしょうか。SNSがその役割を担ってしまう時に、⼈間は他者への信頼よりも不信を強めていくでしょう。
マタイ福⾳書で描かれるヨセフが⾃分⾃⾝の抱いた不安や恐れに対してどのように折り合いをつけていったのかは分かりません。しかしルカ福⾳書ではマリアの⼼情を記しています。「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」(ルカ2:19)。
"不安"と"恐れ"に陥れる力が働いている
「女は身ごもっさてもう⼀つの⽇課であるヨハネ黙⽰録には次の⾔葉が記されています。ていたが、子を産む痛みと苦しみのため叫んでいた。女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖ですべての国民を治めることになっていた。子は神のもとへ、その玉座へ引き上げられた」(ヨハネ黙示録12:2,12:5)。この「⼥」とは教会を指す⾔葉であると理解されています。また「⼦」はキリストやキリストを通して⽰される福⾳のメッセージを指していると理解できます。ヨハネ黙⽰録の記す象徴的な⾔葉から⽰されていることは、"教会にはキリストの福⾳を伝える苦しみが与えられる"ということです。それは教会だけではなく個⼈でも同じことが⾔えます。
キリストを福⾳を伝える私たち⾃⾝は本当にキリストの福⾳を信じ、キリストの福⾳に⽣きているでしょうか。私たち⾃⾝が本当にキリストを救い主として受け⼊れていくために、私たちは⾃分⾃⾝の不安や疑い、恐れと向き合わなければなりません。普段は⾒ないようにしてきた⾃分⾃⾝の姿や⾃分の中に渦まく様々な感情を知らなければなりません。それはとても⼤変な出来事です。ヨハネ黙⽰録は先ほどの箇所に関連して次のように語って「一つのしるしが天に現れた。見よ、火のように赤い竜である。竜は子を産もうといます。している女の前に立ちはだかり、産んだら、その子を食べてしまおうとしていた」(ヨハネ黙示録12:3,12:4)。この「⻯」とは悪魔を指す⾔葉として理解されています。この「⻯」はキリストの福⾳を⾷べ尽くすというのです。聖書は、私たちを不安と恐れに陥れ、いつも疑念を抱いて⽣きるように仕向ける⼒、⾃分⾃⾝も疑い、突きつけられたくない現実から⽬を背けていけるように、⾒たくない⾃分を⾒ないで済むように仕向ける⼒が確かに存在していることを語っています。
キリストがお生まれになったのだから
しかしだからこそ私たちには"告知"が必要なのです。だからこそ私たちには「あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(ルカ2:11)という"告知"が必要なのです。私たちを不安と恐れに陥れていく⼒が働くこの世界の中で"恐れることはない"というメッセージの"告知"が必要なのです。キリストが⽣まれたことによって私たちを不安と恐れに陥れていく⼒がなくなったわけではありません。⼈間の現実を⼤きく左右する不安と恐れ、疑いの⼒は今も働いています。それはこれからも決してなくなりません。しかしキリストが私たちに与えられています。飼い葉桶に寝かされ、⼗字架を背負われるキリストが私たちの現実を⼤きく左右する不安と恐れ、疑いのただ中に⽴ってくださいます。"恐れることはない"。この⾔葉がクリスマスを迎える喜びの⾔葉となるように祈ります。
祈り
主なる神さま、この朝もあなたの御⾔葉を分かち合うことができましたことを感謝いたします。アドベント4週⽬を迎え、クリスマス礼拝を迎えています。今年はクリスマスのメッセージとして「恐れることはない」という御⾔葉を分かちました。私たちの⽣活には恐れと不安が伴っています。世界に⽬を向けてみてもそれは同じです。私たちを不安と恐れに陥れる⼒が今も働いていることを聖書は告げています。しかし聖書は⼈間の抱く葛藤に⽬を留めて、様々な箇所で「恐れることはない」というメッセージを告げています。クリスマスを迎えるこの時、キリストが私たちの恐れと不安、疑いのただ中に⽴ってくださるために与えられていることを知らされました。飼い葉桶に寝かされ、⼗字架を背負うキリストが私たちのために与えられていることを感謝いたします。
新しい週もそれぞれの信仰と⽇々の⽣活、健康を守ってください。また様々な事情の中で礼拝を覚えつつも参加することができずに、祈りをもって過ごす⽅々がいます。それぞれにあなたの恵みを⼼に留め、感謝のうちに新しい週を歩むことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。