芹野 創 牧師
ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。(マタイによる福音書2章6節)
"ユダヤ人の王"を求めて
占星術の学者たちがキリストを来訪する物語はマタイ福音書にしか描かれていません。またマタイ福音書ではマリアの受胎告知や羊飼いの来訪は描かれていません。マタイ福音書もルカ福音書も救い主誕生の知らせを受けて、あるいはその兆しを見つけてキリストのもとを訪れる人物がいたことをそれぞれ描いています。
ルカ福音書では全領土の住民に対して「登録をせよ」(ルカ2:1)というローマ皇帝の勅令が出されるいる最中に、おそらく"住民"という社会的なインデンティティを持つことがなかったであろう"羊飼い"たちにこそ、真っ先に"救い主誕生"の知らせが告げられ、彼らが真っ先にキリストのもとを訪れる物語が描かれています。一方マタイ福音書ではユダヤ人の立場から見れば外国人であり、宗教的にも"占星術"というユダヤ教徒は異なった価値観を持つ人たちがキリストのもとを訪れる物語を描いています。しかしマタイ福音書を注意深く読んでみると、彼らは一言も"救い主"という言葉を発していません。ルカ福音書が明らかに"救い主"という言葉に注目しているのに対して、マタイ福音書では「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」(マタイ2:2)という、少々回りくどい表現を用いています。しかし占星術の学者たちが語った「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」という表現にこそ大変重要なメッセージが込められています。彼らは"ユダヤの王"ではなく"ユダヤ人の王"を求めてやってきたのです。ここには大きな違いがあります。
自らの内側から生み出されるもの
キリストが生まれた時にユダヤを治めていたヘロデ王は紀元前73年に生まれ、紀元前47年にガリラヤの領主となり、紀元前40年にローマ帝国の元老院から"ユダヤの王"という称号を与えられ紀元前37年からキリスト誕生の頃までユダヤを治めたと言われています。つまりヘロデ王は"力による支配"を土台とした王であるということです。自らが治めるユダヤにおいて何かあれば、ローマ帝国の強大な軍事力を後ろ盾にして、武力による支配を徹底することができる王だということです。このような為政者は現実的に、あるいは社会的な地位として確かに"ユダヤの王"ですが、しかし占星術の学者たちが探し求めていたのはこのような為政者としての王ではなく"ユダヤ人の王"でした。
ここには占星術の学者たちが抱いた一つの期待があるように思えます。それは平和というものが外から押し付けられる形ではなく、自らの内側から"ユダヤの王"ではなく"ユダヤ人の王"というアインデンティティの中からこそ生まれるという期待です。その期待は私たちの心の平安にも当てはまります。人生に起こる様々な出来事は時に私たちの心を揺さぶります。感謝よりも不安が大きくなり、喜びよりも悲しみや悩みが大きくなる時があります。そのような時、私たちの心は平安ではありません。波に揺らされるようにして、目の前の出来事や状況に右往左往するなら私たちの心の平安はどんどん遠のいてしまいます。しかし私たちの心の平安は、誰かが用意してくれるものではありません。仮に誰かが用意してくれることがあったとしても、自分自身が心から納得しなければそれは本当の平安にはならないでしょう。私たちの心の平安もこの世界の平和も、外から押し付けられる形ではなく、自らの内側から生み出されるものなのです。それが占星術の学者たちが描いた期待なのです。
"あなたの主"とは誰ですか?
誰もが"ユダヤ人の王"になれるわけではありません。"ユダヤ人の王"は誰かから任命されるような形では生まれないのです。ユダヤ人の悲しみ、苦しみ、怒りを深く知り、また自らも傷つき、悲しみながら歩むことができる人こそが"ユダヤ人の王"なのです。あなたの悲しみ、苦しみ、怒りを深く知り、また自らも傷つき、悲しみながら歩んでくれる人こそが"あなたの主、あなたの王"なのです。
キリストの復活を否定した弟子の一人トマスは、その後、復活のキリストに出会い「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ20:28)と告白しました。私たちも自らの口と言葉で"わたしの主"と出会わなければなりません。トマスは「わたしは決して信じない」(ヨハネ20:25)と自らの口ではっきり否定する人でしたが、その後「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ20:28)と自らの口ではっきり告白した人でもあるのです。
本日の聖書日課には「エフェソの信徒への手紙」も与えられています。そこでは次のように記されています。「異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となる」(エフェソ3:6)。ここには外国人でもキリストによって神に連なり、新しく生まれ変わることのできる恵みが語られています。私たちはキリストと共に痛み、苦しみ、キリストと共に立ち上がるのです。それがキリストの十字架と復活です。
もう"あの頃"のようにできなくなった…
今年のクリスマス前に久しぶりに大学時代の友人たちと会いました。大学時代に音楽バンドを組んでいたメンバーです。学生時代はよくライブハウスで自分たちのオリジナル楽曲を演奏しておりました。友人たちと学生時代を振り返りながら、"もうあの頃のように作詞作曲なんてできなくなった"という話になりました。その理由は社会人として仕事をしながら事務的な言葉ばかりを使っているうちに、自分の心の中から湧き上がってくるような言葉を使わなくなった。心の中から湧き上がってくるような言葉を自分の手で書き留めなくなったというのです。学生時代には作詞作曲をするだけの時間があったわけですが、ただ時間があったということ以上に、学生時代には自分の心の中から湧き上がってくるような言葉を当たり前のように味わっていたということに気付かされたというのです。
私たちは内側から湧き上がる力や言葉にあまり注目しなくなってしまったのかもしれません。文字を書くこと、思考すること、失敗をしながらも挑戦すること、時間をかけてでも一生懸命に取り組むことにあまり価値を置かなくなってしまった代わりに"タイパ"、"コスパ"という言葉が社会生活の基準になりつつあります。私たちが内側から湧き上がる力や言葉を忘れていく時、希望を持って生きることすらも誰かに依存するようになってしまうでしょう。喜びも希望も心の平安もこの世界の平和も、"誰かが用意してくれるもの"になってしまう世界はなんと苦しい世界でしょうか。占星術の学者たちが"ユダヤの王"ではなく"ユダヤ人の王"を求めたように、私たちの心の平安も、この世界の平和も外から押し付けられる形ではなく、自らの内側から生み出されるという期待を持っていたいと思います。
人は必ず変わることができる
詩篇では「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう」(詩篇27:4)と歌っています。この一つのこととは「命のある限り、主の家に宿る」ことです。「主の家」という希望、喜び、心の平安、平和な世界に私たちはまだ辿り着いてはいません。旧約聖書の日課として与えられているイザヤ書が語るように世界は今なお闇に包まれているように見えます。「見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる」(イザヤ60:2)。しかし私たちはいつか必ず「主の家」という希望、喜び、心の平安、平和な世界に辿り着くことができるように願い求めていきたいと思います。
人は外からの力ではなく、自らの内側から変わることのできる力を持っています。キリストが十字架と復活を通してそのことを示されました。自分の心を改めて見つめ直し、私たちの心の平安も、この世界の平和も外から押し付けられる形ではなく、自らの内側から生み出されるという期待を持って2025年を迎えましょう。
祈り
主なる神さま、この朝もあなたの御言葉を分かち合うことができましたことを感謝いたします。クリスマスを迎え2024年も最後の日曜日を迎えています。この1年も自然災害や長期化する戦争など様々な出来事がありました。
喜びも希望も心の平安もこの世界の平和も、"誰かが用意してくれるもの"ではないということを改めて分かち合いました。私たちは外からの力ではなく、自らの内側から変わることのできる力を持っていることをキリストの十字架と復活を通して示されています。私たちの心の平安もこの世界の平和も、外から押し付けられる形ではなく、自らの内側から生み出されるという期待を持って過ごしたいと思います。
新しい週もそれぞれの信仰と日々の生活、健康を守ってください。また様々な事情の中で礼拝を覚えつつも参加することができずに、祈りをもって過ごす方々がいます。それぞれにあなたの恵みを心に留め、感謝のうちに新しい週を歩むことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。